LEVEL:06  君が泣かないから



  LEVEL:06  君が泣かないから



 植物の姿で油断を誘い、得物を喰らう魔物――マンイーター。うねうねと伸びる触手を相手にしながら、アスティアは緊張する。視界の端でひるがえったのは、白いローブの裾だった。
「風よ。悪しき者どもを切り裂く、輝きの刃となれ――」
 高らかな詠唱が響き渡る。かざされた杖先には光の粒子が集まり、ぶつかり、放電しながら渦を巻く。
「バギ(真空魔法)!」
 放たれた光の渦は砂じんを巻き込んで広がり、瞬く間に小規模の竜巻を形成する。その強力な風はマンイーターの群れを容赦なく引き込み、真空の刃で切り刻みながら吹き荒れた。
 そして見境無く、前線のアスティアにも忍び寄る。反射的に避けた刃は頬を掠り、皮膚を裂いてフードをさらった。冷たい感触に目を眇めたが、怯まず目前の敵に集中する。
 数匹を仕留めて尚衰えない竜巻は尚も駆け続け、アスティアがその一匹を仕留める間に全滅させて収束した。
 残された屍骸は無残に刻まれており、とても直視出来るような状態ではない。アスティアは即座にセシルの無事を伺うが、後方援護に徹していた彼は無傷のようだった。黙々とギラで屍骸を処理する表情に見える、陰りが気がかりではあったが――。
 視線を前方に投げる。先にはバギを放った主――ルナフィーリアがしれっと腕を組んでおり、
「集団戦では役立たず、ですのね」
 視線が絡むと柳眉を逆立て、やはりトゲを放って来た。アスティアは剣を収めながら、
「殿下の御尽力には畏れ入る」
 無感情に淡々とやり過ごす。ルナフィーリアは、苛立ちを隠そうともせず顔を背けた。
 嫌われたものだ。一体、どう返せば満足するのか。
 アスティアは新しく出来た傷に触れ、こっそり嘆息する。紙で切ったような傷だった。後になってじわりと滲みる。
 アスティアは、ルナフィーリアの存在に苦慮どころか辟易し始めていた。
 度重なる不平不満は聞き飽きた。が、それはそれで構わない。
 問題は、戦闘中の勝手な行動だった。
 彼女はなりふり構わず走る。何度下がれと警告しても聞き入れず、先日習得したばかりの攻撃呪文、バギを放ちまくる。更にアスティアはそれが吹き荒れる前線にいる為、とばっちりで負う傷が既に日常茶飯事だった。
 魔物のみならず彼女にも気を配らなければならないので、心労は二倍だった。それを知ってか知らずか――恐らく前者だ――ルナフィーリアは辛辣だった。
 事情を考慮し耐え、顔には出さないでいるが、アスティアの胸中も、浴びた悪口雑言で蓄積する不快感に侵蝕されつつあった。
 滲み出るように広がる不安。眉間に縦じわが定着しそうだ。
 首の汗を払い、フードを被り直した所で肩を叩かれた。振り向けば顔中汗まみれ、それでも笑みを浮かべたセシルが立っており、
「まさか気にしてないよな?」
 思いがけない表情で指摘され、どきりとする。絞られた声で囁かれたのは、見透かしたような気遣いだった。
「まさか」
 静かに返すとセシルは小さく頷いて、先を急ごうとするルナフィーリアに歩み寄る。
「お疲れさま。さっきから連発してるけど、魔力は大丈夫?」
「平気です」
「流石だねー。僕とは基礎が違うんだな、やっぱり」
 笑顔のまま続けられるセシルの賞賛に、ルナフィーリアはやりにくそうに眉を潜める。気を削いだ所で彼は、忠告を付ける事も忘れなかった。
「でも、魔力は無限じゃないんだしさ。手を下すまでもない場合とか、僕らは下がってアスを盾にしとこうよ」
「薄情な事を言う」
 反射的に突っ込んだアスティアだったが、セシルは悪怯れもせずウインクなど飛ばして来た。
「体力自慢だし大丈夫でしょ?」
 ルナフィーリアの反応は、
「それもそうですわね」
 つんと顎を上げ、目を細めて口元に手を添える仕草は高飛車そのもの。
 アスティアの疲労は既に三倍を超えたか。それでも彼女は、セシルの言葉で一応、下がる事への納得を見せたようだった。その事からも、自分は堪えて呑むしか無い。
 このように、セシルが刺立つ両者のフォローに回ってくれている事は、ある種の救いではあった。それはルナフィーリアにも言えるようで、彼が側にいれば比較的落ち着いている様子が伺える。
 この旅において、セシルの重要度が上昇している事は否定出来ない。刻々と変化する心境に腕を組みつつ、ちらりとセシルを見遣れば、
「アス頑張れー」
 などと軽く言い、小さく手を振って来る始末。
 無言で目を伏せ、鼻から息を抜いた。
 彼は何故こうも、気の抜けるような笑顔が得意なのだろうか。沈み、考え込む自分がばからしくなる。
 セシルは相変わらず、そこにいるだけで和やかな空気を振りまく存在だった。ルナフィーリアに並び付き、一方的に話しかけながら歩く姿を見つめ、結局苦笑する。
 そんな彼の背には今、存在を主張するよう一際ひらめく物があった。
 それは、光沢を帯びた空色の、極めて軽い素材で織られたマント。それこそが今回のキーアイテム、風のマントだった。
 ここに至る前、三人はムーンペタより南東に存在する物見の拠点、風の塔に足を運んだ。そこに安置されていた風のマントこそ、ルナフィーリアの言う『ドラゴンの角を渡る唯一の望み』だった。
 彼女の説明によれば、風のマントはリレミト(離脱呪文)を使えない兵士の為に存在するもので、装備していれば物見で異常があった時、塔から飛び降りるだけで脱出を可能にするマジックアイテムなのだという。風量次第ではその距離も伸ばせる為、常に強烈な潮風が吹き荒れているという、ドラゴンの角を渡る程度ならばうってつけなのだ、とも話していた。
 セシルはその、風のマントのデザインを甚く気に入った。故に、まだ使用時期ではないのにも関わらず、しっかりと身に付けているのである。
 装備後の彼は風になびかせてみたり、くるりと回ってひらめかせてみせたりと、それはそれは嬉しそうだった。満足げにふふりと笑い、休息時にマントの絵を描き出す行為などにはやはり、変わった趣味の持ち主だと実感した節も有るのだが――まあ、害はないので気にせぬよう勤めたアスティアだった。

 三人は今、砂漠を横断していた。
 何処を見渡しても、岩石と砂礫に覆われた荒地。そして気候は、思っていた以上に過酷なものだった。昼は焼けるような暑さに包まれ、夜は極端に冷え込む。加えて気紛れに発生する深い霧と、どこにでも出没する魔物たち。
 アスティアは空を仰ぐ。昼の印象は黄。遮るもの無く照りつける太陽は、熱い。
 この過酷さに、今の余裕が消えるのも時間の問題だとは感じていた。




◆    ◇    ◆    ◇


 砂漠も中盤を過ぎれば、口数は皆無に近かった。
 歩く道無き道すがら、おのずとルナフィーリアが遅れる。隣を歩くセシルも必然と遅れる。先頭のアスティアは振り返り、その到着を待ちながら進む。
 何度も繰り返して進むうちに、それは起こった。
「ルナフィーリア――? アス、待って!」
 黙って久しかったセシルの声が耳に届き、アスティアは振り向いた。
 ルナフィーリアがうずくまっており、傍らでセシルが様子を看ている。
「如何された」
「……なんでもありませんわ。セシルも、大袈裟に騒がないで下さる」
 踵を返して寄れば蒼白な顔、異常な量の汗を浮かべた上で強気を見せられたが、説得力は皆無だった。
「足を診せて」
 セシルが静かに要求する。
「何故」
「気付けなくてごめん。思えば、足取りが少しおかしかった気がする」
「いいから構わないで。少し休めば歩けるわ」
「でも放って悪化したら唯じゃすまないよ。君は、このまま歩けなくなってもいいの」
 いつになく強い口調にルナフィーリアは顔をしかめたものの、セシルは譲らず表情も変えない。彼女は渋々、ブーツを脱いでみせた。
「血まみれじゃないか!」
 たまらず声を上げるセシル。アスティアは僅かに眉を寄せる。彼女の足は靴擦れを起こし、肉刺が潰れたのか血に滲んでいたのである。痛ましいものを見るセシルの視線に、ルナフィーリアは観念したように息を吐く。
「……こんなに長い距離、歩いた事などありませんでしたもの」
 傷を魔力で治療する余力も無かったのだろう。ルナフィーリアは、ばつが悪そうに視線を下に向けて唇を噛む。
「だから、無理しないでって言ったのに。どうしてここまで我慢したんだい」
 ルナフィーリアは無言で、アスティアを睨んだ。何故、ここで睨まれなければならないのだと腹に据えかねたが、理由は解った。下らない意地だ。が、責任は多少あると感じ、アスティアは背の盾と剣を腰に下げた。セシルが応急処置を施し終えるのを見計らい、彼女の前に屈む。
「なんの真似ですの」
「その御様子では満足に歩けないだろう」
「貴方の背を借りるなど、足が折れても嫌ですわ!」
 やはり反発された。予想の範囲内だ。
「では本当に両足を折りますか」
「――」
 真顔で告げると、ルナフィーリアは息を呑んだ。
「アス、真顔で冗談はキツい」
「本気だ」
 顔も向けず即答すると、セシルは苦笑を引きつらせた。
 ルナフィーリアは砂を握りしめていたが、やがて諦めた。砂を投げつけてよろよろと立ち上がり、アスティアに寄る。背を向けて補助の手を回すと数秒ためらったものの、そのまま乗ってきた。内心安堵しながら体勢を整えていると、
「汗臭いわ」
 小さな抵抗だろうか。
「御互い様故、御辛抱願いたい」
 ルナフィーリアはかっと頬を染め、
「デリカシーに欠ける振る舞いばかり。不愉快だわ!」
 強く言い捨てて黙った。
 一連を終え、疲労に襲われる中でセシルと目が合う。彼は苦笑いだった。
「少し荷物持とうか」
「頼む」
 利き腕の自由だけは確保して、再び歩き出す。




◆    ◇    ◆    ◇


 更に無言で歩き続けていた。
 やはり時折襲ってくる魔物の相手をしながら、方位磁石頼りに進む。時折休憩をはさみながら移動してはいるが、日の傾きに比例して厳しさが変動する気候に、体力の消耗は予想以上だった。
 この環境で、正常のまま進み続ける事はやはり、難しかったのか。
「……あつい……」
「何?」
 小さく呻かれた言葉。聞き返そうと見遣れば、セシルが不自然に傾いた。
「セシル!」
 重力のままどさりと倒れ込む様子に、背上のルナフィーリアが声を上げる。
 横たわった彼は、見るからに異常な呼吸を繰り返していた。アスティアはルナフィーリアを下ろしてセシルの傍らに屈み、容態を確かめ、眉を潜める。
「どうなさったの」
「熱中りのようだ。セシル、私の声が聞こえるか」
 セシルの意識を確認する。彼は呻いて薄く目を開けた。
「う……なんか、どんどん……気持ちが悪くなってきちゃって」
「水は飲めそうか」
「ん……」
 手持ちの水筒に少量の塩を加えてセシルに与え、同時に周囲の日影を探る。が、砂礫ばかりのそこに、満足な休憩場所は見当たらなかった。アスティアは止む無く、飲み終えてぐったりしたセシルを肩に担ぐ。
「ごめん」
「構わない。とりあえず場所を移動する。――殿下」
 向けられた視線の意図を察し、ルナフィーリアは目を見開いて首を振る。
「まさか私とセシルを背負って歩こうと言うの、正気なの?!」
「熱中りは一刻を争う。貴女を待ちながら進む余裕は持てない」
 有無を言わせず告げると、ルナフィーリアは顔を歪めて苛立ちながら、それでも素直に従った。
 流石に、二人分ともなると足取りが鈍る。両手が塞がってしまった今、ここで魔物に遭遇などしたら――考えれば背筋が凍る思いだが、致し方ない。




◆    ◇    ◆    ◇


 どれほど進めたのだろうか。無謀は、火を見るよりも明らかだった。
 二人を背負い、アスティアは無心で歩き続けていた。容赦ない太陽の下、立ち止まっている余裕も、引き返す体力も無い。 
 記憶した地図の目的地は、砂漠のオアシス。しかしいくら進んでも辿り着けない。二つの身体は、次第に重量を増して行くように感じられる。セシルの意識は既に無く、ルナフィーリアも熱にやられ意識を失った。
 何度目か。ずり落ちるルナフィーリアを背負い直して、ふと、思う。
 何故こんな思いまでして、炎天下の砂漠を歩いているのだろう。
 旅慣れていないのは三者共通だったが、二人とは基礎体力が違う。現にこうして足を引っ張られ続けている今、彼らの存在はただの荷物でしかなかった。
 邪魔ならば捨てればいい。全滅よりはましだ。ここで死ぬ訳には行かない。
 今度はセシルを肩に上げ直し、深呼吸する。流れっぱなしの汗が不快だった。
 それでもこの手を離せないのは、何故なのか。以前の自分ならば即刻そうしていたはず。
 悲しみを増やさない為に旅立ちを決めた、セシル。
 帰る場所を失い、焦燥をぶつけるがごとく仇討ちを覚悟した、ルナフィーリア。
 それぞれ理由と境遇は異なるが、向かう目的地だけは合致した二人。
 成り行きとは言え、まさかこんなにもタイプの違う、悪く言えば扱い難い二人と行動を共にする事になろうとは。旅立ちを決意した瞬間には考えられなかった。
 この二人に出会い、何かが変わり始めているのだとすれば、それはいいのか悪いのか。判断はつかないが、どちらにせよ。
「死なせるわけにはいかない」
 声に出して奮わせる。
 彼らがどうであれ、道を共にすると決意したのは自分だ。迷うな。
 アスティアは遥か向こうまで続く、砂の先を見上げて再び歩き出す。

 よろけながらも前を見据えて進むアスティアの視界に、ある時変化が起きた。延々続いていた砂山の向こうに、切望していた色が見えたのである。景色にくっきりと浮かび上がった緑色。それは、歩いて来た距離と方角に一致することを示す。
 ――オアシス。
 生への望みに一瞬沸き立つが、ついでに水を差すような胸騒ぎも混ざる。左方向に気配を感じて見れば、うごめくいくつかの触手。
「……つくづく運の無い」
 それは魔物――マンイーター。数は三。未知の魔物ではなかった事が救いか。
 背負っていた二人と荷物を地面に下ろし、日よけのマントを脱いで彼らに日影を作る。身軽になった所で剣を抜き払い、構え対峙した。
 獲物を見つけたマンイーター達は真っ直ぐに突進してくる。アスティアは先手を打って砂を蹴った。
 剣に日を反射させ、目くらましで硬直した一体を薙ぎ払う。振り向き様に二体目も断ち斬った所で、予想外に伸びた三体目の触手に気付けなかった。
「な……ッ」
 脚を絡め取られた。
 身体が砂の上に投げ出される。驚愕に声を上げ、咄嗟に受け身を取った。
 明らかに低下している脚力に舌打ちし、状況から抜け出すべく顔を上げた所に、マンイーターの花びらが鼻先を掠った。目を見開く。迫るのは花の中央に存在する口。そして吐き出されたのは、甘い香りをまとう息。避ける間もなくそれを吸い込んでしまい、アスティアは焦った。体中の力が一気に抜け落ちる。
(まずい)
 催眠性のブレスだ。眠りに誘われる。
 途端に動きの鈍ったアスティアに、マンイーターは容赦しなかった。嬉々として大口を開け、アスティアの肩に噛み付く。
「ゥ――グッ」
 牙が食い込んで行くのが分かった。目を剥くような痛みにも関わらず、麻痺した意識はどんどん薄れて行く。それでも諦めるわけにはいかなかった。ここで自分が死ねば、放置されたままのセシルも、ルナフィーリアも間違いなく死ぬ。
 それだけは!
「……ッ、ァァアアアア――――ッ!!」
 唇を噛み切った。残る全身の力を集中させ、絶叫に近い声を上げて剣を握った両手を振り上げる。
 剣がえぐり込む音、同時に噴き出す体液が、びしゃりとアスティアを汚す。その生温い感触にまぶたをこじ開けると、胴を切り離されたマンイーターがずるりともたれかかって来た。その身体はビクビクと痙攣した後、やがて動かなくなる。重い。
 肩に刺さったままの頭部を剥がし、脚に絡んだままの触手を引きちぎり抜け出すと、アスティアは痛む肩を押さえて突っ伏す。流れ出る血の感触。息を吸うと砂が口に入り、吐き気に襲われる。
 意識が遠のく中、それでも必死でセシルとルナフィーリアがいる場所へと視線を彷徨わせた。
(もう少しで、助けて、やれる――ッ)
 腕は伸ばすが、もう、身体がついてこない。砂を噛み、悔しさに霞む視界の中で、
「大丈夫かッ!」
 不意に、上がる声があった。アスティアは声のした方に目を向け、見る。赤銅色の肌に黒目、黒色の頭髪を背に束ねた中年の男。手には、どこかで魔物を切ったばかりなのか、ぬらりと光る鋼の剣。
 何者。
 駆け寄ってくる男を睨んで威嚇すると、彼は戸惑いながらも手短に名乗った。
「俺はマリオン。ムーンペタのキャラバン隊に所属する剣士だ。向こうのオアシスにテントを張っているんだが、魔物の気配がしたんで飛んで来たんだ」
 盗賊か、と警戒したが違うらしい。完全に安堵は出来ないが、少なくとも敵意は見受けられないので、アスティアはひとまず力を抜いた。そこで、限界が近いのか意識が切れかける。
「おい?!」
 駆け寄って来るマリオン。アスティアは首を振って制す。そして、視線で荷物を置いた場所を示した。
「――熱中りで、重症の連れが――。頼む、私より、彼らを……ッ」
「なんだって?!」
 アスティアの言葉に、マリオンが血相を変えて示された方角に走った。
 ひとまず、命はつなげた。それを理解した途端、視界が暗転する。




◆    ◇    ◆    ◇


 幾重もの波紋が連なる。
 夕の空色が反射する透明な泉に、アスティアは様子を伺いながら静かに踏み入った。昼の熱で暖められた水温が、焼けた肌に程よく馴染む。
「わー、気持ちいいー!」
 その横を軽く駆け抜け、水面をすくって雫を撒き散らしたのはセシルだ。指先から宙に散る飛沫は、夕刻のオレンジを浴びてきらきら輝く。目を奪われていると、顔にバシャリとかけられた。呆気にとられて佇むアスティアに、セシルはケラケラ笑っている。
「……はしゃぐな」
 溜め息混じりに告げたが、水と戯れる彼には届かなかったらしい。再度溜め息をつき、セシル目掛けて思い切り水を跳ね上げてやった。頭から大量に被っても、セシルはずっと笑っている。
 まるで水を得た魚だ。
 あまりに嬉しそうなので、アスティアは目を細めてしまった。
 ここまで過酷だった。無理も無い。

 マリオンが所属するムーンペタのキャラバン隊が野営地に選んでいた、オアシス。アスティア一行はそのテントで一晩、世話になった。翌日にはセシルもルナフィーリアも無事目覚め、今に至る。
 水浴びが出来ると聞き、アスティアはセシルとともにオアシスの泉に赴いていた。ルナフィーリアは先に済ませ、今はキャラバンのテントで休養している。
「大分良さそうだな」
 身体の垢を流し、髪を洗った所で、浅瀬に浸かってぼんやりしているセシルに尋ねてみた。彼はニコリと笑んで振り返る。
「うん。まだ少し頭が重いんだけどさ。アスは平気なの」
「体力だけが自慢だからな」
「ぷっ」
 自虐的に言ってやると、彼は小さく吹き出した後、心底済まなそうに縮こまる。
「……ごめん、アスにばかり負担をかけて。僕がもっとしっかりしていれば、もっと楽に砂漠を越えられていたのに」
「気に病むな」
 静かにそれだけ告げると、セシルは何かを言いかけたものの、結局黙った。そして俯く。
 いつも以上に落ち込んだ表情を見せたセシル。声をかけようとしたが留まった。彼自身の問題だと察し、アスティアは何も言わなかった。
 ややあってから、セシルは表情を切り替えて顔を上げた。
「改めて言うけど、アス。助けてくれてありがとう」
 神妙に礼を言われたのでアスティアは微笑し、頭を小さく横に振る。
「いや。最終的に助けてくれたのはマリオンだ。彼がいなければ、俺もどうなっていたか分からない」
 アスティアは意識せず、右手で左肩を掴んだ。表情も厳しく引き締まる。
 キャラバン所属の救護班に応急処置してもらったその傷はまだ、触れれば刺すように痛い。眉間を寄せると、セシルが近づいて来た。
「そこ、どうしたの」
「不覚だが、魔物にな」
 悔しさが抜けていなかったので、低い声で呟く。セシルが見ようと背伸びをするので屈み、水で濡れてしまった包帯を外して見せた。くっきりと牙の痕が残っている。セシルは眉をひそめた。
「何」
「マンイーターだ。俺は、奴の吐いた催眠性のブレスを吸って瀕死だった」
「唇の傷は」
「意識が絶えそうだったのでつい、自分でな」
「……」
 答えるとセシルは奥歯を噛み締め、アスティアの傷に手をかざした。
「いい。病み上がりだろう。応急処置も済んでいるし、放っておけば治る傷だ」
「僕の気が済まない。ホイミをかけるくらいなら、なんて事無いから」
 セシルはアスティアの訴えを流してそのまま意識を集中させた。呟くように紡がれる詠唱、柔らかな白色の光が傷を包み、ゆっくりと痕跡を消して行く。
 呪文をかけ終えたセシルは、大きく息を抜いて眼を細めた。
「ほんとに、僕は君に、コレしか出来ないな」
 あまりにも沈んだ声で言うので、
「それでも俺は十分助けられている。……有り難う」
 アスティアは真っ直ぐにセシルを見つめ、礼を述べた。
「正直、肩の痛みは辛かった」
 そして素直に告げると、オリーブグリーンの瞳が一気に潤む。
「……アス」
 セシルはすまなそうに破顔して目元を押さえた。アスティアは苦笑し、そっと視線を外す。
 ……何故だか照れくさかった。
 セシルがぐすぐすと鼻をすする音が収まる頃、アスティアはふと思い立って彼を見る。
「セシル。一つ、聞きたい事があるのだが」
「うん?」
「――俺は、彼女に嫌われているのだろうか」
「ルナフィーリア?」
 アスティアは頷く。セシルはきょとんと瞬きしてみせた後、思案顔になった。
 旅の動向を決めた日より、ずっと気になっていた事だった。彼女が何故、ケンカ腰で接して来るようになってしまったのか。あの時を境に変わってしまった態度が、アスティアには疑問でならなかった。
「んー……多分、だけど」
 意見をまとめたらしく、セシルがこちらを見る。
「アスさ、彼女に、女がどうのこうの、って言ったでしょ」
「覚えはある」
「それが気に入らなかったんだと思う」
「その程度で、あの態度なのか」
 驚きに目を見開くアスティアに、セシルは真顔で頷く。
「君にはその程度でも、彼女には差別に聞こえたんじゃない」
「差別?」
「もちろん、そんな意図なんて無かったって僕には解ってる。でも、態度が豹変したのってその言葉からだったと思うよ」
 髪に残った雫が顔を伝い落ちる。周囲に広がる波紋を見つめて黙った。
 予想には無かった理由を述べられて、アスティアは困惑する。
 セシルは声の調子を変え、明るく提案して来た。
「とりあえずさ! もう少し、優しく接してみたらどう? こう、ギスギス素っ気なく言い放つんじゃなくて、ソフトにさ」
「優しく」
 反芻して、アスティアは直ぐに眉間を寄せた。
「口を開けは悪口雑言。扱いに困る」
 反発気味に言い捨てると、セシルは声を殺して笑う。そして、
「……焦ったら、駄目なんだと思う」
 ポツリと呟いた。顔を向けると彼は静かな声で、
「今の彼女は色々……あり過ぎて、混乱している所もあるんだと思う。余裕も無いと思う。だから今は、少しずつ、関係を修復して行くしか無いんだと思う」
「……大丈夫だろうか」
「きっと大丈夫」
 そこでけろりと笑うセシルに、つられるように苦笑する。
 セシルはそのまま一つ頷いた後、不意に真顔になった。
「アス。今、彼女を支えられるのはきっと、一緒に居る僕たちしかいないんだ。彼女が少しでも楽になれるように、前みたいに笑ってくれるように、僕たちで支えてあげよう」
「そう……だな」
 アスティアは小さく息を吐いて、水面を見た。
 そして幼い頃に見た、無邪気に笑うルナフィーリアの姿を思い出す。




◆    ◇    ◆    ◇


 ルナフィーリアはテント内の隅を陣取り、膝を抱えてつま先を睨んでいた。
 そして、
(……信じられない)
(信じられないわ)
 そればかりを繰り返していた。
 意識が消え、ここに来る前。
 ルナフィーリアはアスティアの背上にいながら、同じく彼の肩に担がれたセシルの顔を見ていた。彼の意識は既に無く、呼吸もひたすら苦しげで、背負われる荷物なだけの自分がただただ恨めしかった。
 だからせめて、セシルの頭だけでも日影になるようにと、自分のマントを脱いで彼に被せていた。しかしそれが仇となってしまい、直射日光に晒されて、自分の意識までもうろうとして来た時はもう、ここまでなのかと思った。
 その時アスティアはまだ、しっかりした足取りで進んでいた。
 その体力と精神力の強さに恐怖すら覚えた。
 ――屈辱だった。
 自分は魔力も尽きた、体力も尽きた、それなのに彼はまだ倒れる気配無く動いている。
 基礎能力の違いをまざまざ見せ付けられた。
 これでは本当にただの足手まといだ。
 あんなにも足手まといになどなるものかと、決意して砂漠越えに挑んだと言うのに。
 よりによって、一番嫌いな人間に背負われてしまう事になるなんて。
 自分の頭すら支えられなくなって、その背に落とした頬が熱かった。どちらの熱かはもう解らない。ただ、そこはひどく熱かった。
 いっそもう、捨てて行ってくれないかと意識の端で絶望した。
 なのに、完全に意識が落ちる寸前。耳を付けた背中の向こうで、彼がはっきり、
『死なせるわけにはいかない』
 そう呟いたのを聞いた。
 そして今、ルナフィーリアは生きている。
(信じられない……ッ)
 ぎりりと奥歯を噛んだ。
 これが何に対して込み上げる怒りなのか、もう解らない。
「ねえ、大丈夫? まだ足が痛むの?」
 ふと、上から声をかけられた。上目遣いで確認すれば、そこにいたのは救護の女――十ばかり年上で、エリノルと名乗っていた。このテントにいたのはルナフィーリアと彼女だけだ。彼女はつきっきりで自分達の看病を引き受けてくれた、恩人でもある。
 エリノルは顔にかかる栗色の髪を手で押さえ、ルナフィーリアの前にしゃがみ込む。そして、
「ひどい靴擦れだったものね。診せて頂戴」
 有無をいわさず診察にかかった。ルナフィーリアは素直に応じる。
 エリノルはルナフィーリアの足に巻かれていた包帯をてきぱきと解き、状態を見て、瞳を喜びに輝かせた。
「あら、昨日より全然いいわね。もしかして貴女、ホイミを使えたりする?」
「……ええ。自分でも少しずつ治療を」
「そう。なら、もう一晩痛み止めの薬草を貼付けておけば大丈夫ね」
 ルナフィーリアの返答に、エリノルは頷いて新しい薬草を取り出し、包帯で足に固定しはじめた。
「あとは無理せず経過観察。ただ、この状態だと恐らく靴が合っていないわね。その靴で歩き続けるつもりなら、きっとまた同じ事が起こるわよ」
 エリノルは、ルナフィーリアの横に置いてあるブーツを示して告げた。
 普段身に付けているフードと同じ、赤色のブーツ。砂漠越えを決めた時、自分で選んでセシルに買ってもらったものだ。彼女は割と気に入っていた。だからこそ、落胆する。
「……そうかもしれませんわね。以前も、何度か同じ事をしましたわ」
「まぁ……。それでは駄目よ、連れの彼らにはそれを話さなかったの?」
「……言える訳が無いでしょう」
 ルナフィーリアは小さく言って俯き、黙る。その意地めいた仕草に察したのか、エリノルは肩を竦めて苦笑する。そして、
「それなら、私が予備に持っているブーツをあげるわ」
「え……?」
「丁度、足の大きさも同じくらいだし。私も歩く仕事をしているから、使っているものはいいはずよ。まあ、可愛くはないけれど。ちょっと待っていてね」
 そう言い残すと、彼女は一度テントを出て行った。そしてすぐに一足のブーツを手にして戻ってくる。無駄な装飾の一切ない、しかし見た目は頑丈そうな、革製のブーツだった。
「サイズが合えばいいんだけど……とりあえず、はいてみて」
「けれど」
「痛みを我慢しているよりはマシよ?」
 それは確かに、その通りだった。我慢しないで済むならば一番いい。ルナフィーリアは素直に頷いて、エリノルに手渡されたブーツの片方に脚を通した。
「どう? 緩い所はない?」
「足首の所が少し」
「じゃあ、ベルトをもう少し締めるわね。――どう?」
「……とても楽だわ。きつくもない」
 ルナフィーリアは、そのはき心地に驚いていた。今までのものはつま先が締め付けられるようだったのに対し、エリノルのブーツは違和感無く良い。
「よかった。しばらくそれを試してみて。本当は、脚にあわせて一から作るのが一番いいのだけれど。そうだわ、ムーンペタに来る機会があったら、良いお店を紹介してあげるわね」
 エリノルは明るく微笑んでウインクしてみせる。ルナフィーリアは頬が紅潮するのを感じた。その親切心は、素直に嬉しかった。
 まっすぐに顔を上げ、礼を言おうとした時だった。
 シュルシュルと、テントの戸口に掛けられた砂避けのカーテンが開けられる音が響いた。顔を向けると案の定、水浴びをしに出掛けていたアスティアとセシルだ。それぞれさっぱりした顔で、髪はまだ濡れている。
 二人はエリノルに気付くと会釈して、近づいて来た。
「おかえり。オアシスで泳ぐの、気持ちよかったでしょう」
「ええ、とても! 彼女の具合、どうですか?」
 エリノルの問いに答え、次いでルナフィーリアの容態を尋ねたのはセシルだ。エリノルはにこりと笑んで頷く。
「良好ね。薬草と回復呪文で傷も癒えているし、もう普通に歩いて大丈夫よ」
「そうですか。よかったー」
 セシルは満面の笑みで回復を喜び、アスティアも安堵の息を抜く。ルナフィーリアは忌々しそうにつま先を見つめる。
 自分の事をこんな風に話されるのは嫌だった。
 エリノルはルナフィーリアの様子に気付き、覗き込むようにして尋ねた。
「ねえ。彼らにもきちんと話した方がいいわよ、靴の事。言い難いなら、あたしから話しましょうか?」
「結構よ。余計な事は言わないで頂ける」
 ルナフィーリアはキッと顔を上げてエリノルを制止し、もう片方のブーツに足を通した。
「靴の事?」
 怪訝に反芻するのはアスティアだ。視線は、ルナフィーリアの足下に動く。セシルも同様だ。ルナフィーリアはそれを払うように、
「余計な詮索は止めて。不愉快よ」
 言い捨てて立ち上がり、感覚を確かめた後、後ろ髪を払って入り口へ向かう。
「あ、ちょっと待って、ルナフィーリア!」
 セシルが声をかけ、更に追いかけてくる気配を感じたが脚を止めたりはしない。テントを出た。
 そう、まさに余計な事、だ。
 これ以上、彼らに弱みを見せたくはない。
 テントを出て、人気のない方に向かう。今はもう誰とも話したくない。気に掛けられたくない。
 独りになりたい。
 ――なのに。
「ルナフィーリア、待って」
 早足で歩くルナフィーリアを追い、セシルが小走りでついて来てしまった。
「はー、追いついた。脚、本当に大丈夫そうだね」
「……」
 セシルが話しかけても、彼女は返答しなかった。振り返りもしない。セシルは肩を竦め、その場に立ってルナフィーリアの反応を待っている。……それも、長い事。
 結局、根負けしてしまったのはルナフィーリアだった。
「……。貴方はもう、大丈夫なの」
 やや置いてから、静かな声で尋ねた。
「僕はもう平気だよ。倒れたりして、迷惑、かけたね」
「それはお互い様ですわッ!」
 セシルの言葉に反発して、ルナフィーリアは拳を握りしめた。
 セシルは黙る。
 再び沈黙が落ちる。
 月が出ていた。
 砂礫の稜線を照らすその光は白く、冷たく降り注ぐ。濃紺と白のグラデーションが織り上げる夜の砂漠は、黄と白が支配する鮮やかな昼とは全く異なる表情を見せる。
 見た事もない絶景だった。
 ――背筋が寒い。
「すごい所だね。国に引きこもっていたら、一生見る事も無かった景色だ。……寒くない?」
 ローブの両肩を竦めたルナフィーリアに、セシルは羽織っていた上着を着せかける。ルナフィーリアは小さく息を吐いた。
 ――暖かい。
 セシルは素直に受け取った彼女に笑い返して、視線を砂漠へと戻した。
(……どこまでも優しいのね)
 ちらりとその横顔を見つめて、安堵してしまう自分を見つける。
 セシルの側は、まるで日だまりのようにいつも暖かい。
 いつもそうだった。出逢ったばかりの日も、再会したその後も、彼は変わらず暖かい。何よりも家族を大事にしていて、周りの人間を――いや、人間だけはでなく、動物も、植物も、命あるものを尊ぶよう、常に慈しむ心で見つめている。
 魔物ですら、倒し終えた後は悲しそうな顔をする。本人はそれを隠したがっているようだったが、ルナフィーリアはある時気付いてしまった。
 それが、彼女には信じられない。
 魔物は忌むべき、憎い存在でしかないのに。
 何故そんな彼が国を出て、こんな過酷な旅を決めたのだろう。不意に気になった。
「……セシルは」
「ん?」
 小さく尋ねると、彼は目を合わせて来た。その、優しいオリーブグリーンの瞳に吸い込まれそうになりながら、改めて問うてみる。
「セシルは何故国を出て、危険を冒してまで旅に出る事を決意なさったの」
「許せなかったからだ」
 セシルは即答した。強い口調で、更に続ける。
「尊い命を奪い去る所業を働いた、ハーゴンと言う存在が。彼を止めなければ魔物も人も、命ばかりが無駄に消えてしまう世界になってしまう。僕はそれを止めたくて――いや、止めなければならないと思ってサマルトリアを出たんだ」
「そう」
 予想通りの答えだったのかもしれない。納得した。
 ルナフィーリアが小さく相槌を打つと、セシルは続けてこう言った。
「ムーンブルクの訃報を聞かされた時。僕は、君が死んだなんて信じたくなかった。だから君が生きているかもしれないと知った時、そして再会出来た時。涙が出そうな位、嬉しかった」
 真摯に告げられ、瞳の光に負けそうになった。ルナフィーリアは視線を逸らして俯き、
「……私は」
 声が震えてしまう。
 ルナフィーリアはセシルの温もりが残るその上着をかき寄せて、必死に言い直した。
「私は、死んでしまえればよかったと思っているわ」
「ルナフィーリア」
 セシルは発言にいい顔をしなかった。不安そうに見つめてくる。
 それを振り切るように。
 ルナフィーリアは、一度吐き出してしまった言葉を止める事が出来なかった。
「何故、私だけ生き存えてしまったのかしら。何故、私だけ取り残されなければならなかったの。こんな思いをする位なら私は、お父様と、お母様と、国のみんなと一緒に死にたかった……ッ」
 下唇を噛み震える。セシルは言葉を止めた。
 それでも。
 ルナフィーリアは顔を上げた。
 セシルはその時、たった今死を切望したはずの瞳が、次第にギラギラと生の意志に燃え始めるのを見る事になる。
「――けれど、私は生きてしまった。生きているからには戦うわ。ムーンブルクの無念をはらせるのは私だけ。この命に代えても、私は必ずハーゴンを殺してみせる――ッ」
(そうよ。私にはもうそれしかない。その為に生き残ったのだと思えばいいのよ)
 胸に宿る意志を反芻し、ルナフィーリアは空を仰ぐ。
「ルナフィーリア」
 セシルは胸を押さえ、決意に震えるルナフィーリアを見つめていた。


 セシルとルナフィーリアがテントを出て行った、数秒後。
「エリノル。先程の話だが、靴の事、とは」
 アスティアはすぐにエリノルへ向き直り、質問をしていた。
 エリノルは困った顔をして、頬に手を当てる。
「あのコねえ……靴が合ってなかったみたいで、何度かひどい靴擦れを起こしながらここまで来たみたいなの」
 アスティアはピクリと眉を動かし、彼女の言葉を飲み込んで驚いた。
「気付けなかった」
「ちゃんと見てあげなきゃ駄目じゃない。……もっとも、気付かれる前に都度、ホイミでだましだまし歩いていたみたいだから、気付けなくても仕方が無かったとは思うけれど」
「――」
 アスティアは少なからずショックを受けていた。
 しっかり見ていたつもりだった。しかし、彼女の悪口雑言を耳にする都度、見る目がぞんざいになっていたのか。
 エリノルは続ける。
「一応、あたしの予備のブーツが丁度良かったからあげたけれど、油断はしないでね。気の強いコみたいだし、貴方達に頼る事を拒絶しているみたいだから、きっと自分からは言わないと思うの。今度は、しっかり見てあげて」
「肝に銘じておこう。御忠告、感謝申し上げる」
 ――やはり自分は、二人に出逢って少し変わってしまったのかもしれない。アスティアは改めて、そう思った。他人の事でこんなにも頭を使うのは初めてだ。しかも感情に流されて、一番大事な冷静さを欠いてしまっていた程に。
 冷静を失うのは、自身が一番嫌う事のはず。だというのに自分はそれをした。
 これではルナフィーリアが自分を避け、嫌うのも無理は無い。
 もう一度自覚した。やはり、省みるべき点は多そうだ。
 独り静かに反省していると、その袖口をエリノルに引っ張られた。
「……何か?」
 まだあるのかと神妙な面持ちで振り返れば、エリノルは打って変わった好奇心の瞳でこちらを見上げていた。
「あのねえ、それより一つ聞きたいんだけれど。あの女の子、何者なの?」
 声を潜めて尋ねられた。
「あたしやっぱり、あの子をどこかで見た事ある気がするの。振る舞いや態度を見た感じ上流階級のコよね。どこのお嬢様? ムーンペタ、では無いわよね。ルプガナ……それとも、サマルトリア? お忍びで旅をしているの? まさか、家出か何か?」
 矢継ぎ早にぺらぺらと尋ねられ、アスティアはつい眉を潜める。
 これは、事実を知られても厄介だと察した。何せ相手は救護を専門としてはいるが、キャラバン所属。商人なのだ。
「察しの通り忍ぶ旅故、彼女の身元も、詳しい事情を話す訳にも参らない」
「じゃあ、貴方は彼女の従者かなにか?」
「そんな所だ」
 口から出任せで肯定してやると、エリノルはふうん、と面白く無さそうに相槌をよこす。幸いな事に、彼女はそれから先を追求して来る事は無かった。
「ともあれ。こんな時期に歩いて砂漠を渡ろうだなんて、無謀な旅だわねー」
「確かに」
 やや呆れ混じりに言われたので、苦笑で肯定し返すしか無かった。
「ああ、ここにいたか」
 そんな会話を続けていると、テントに入って来たのはマリオンだった。会釈すると彼は手を挙げて答え、
「連れの様子はどうだ?」
「二人ともすっかり回復したようだ。貴殿らには随分、世話になってしまった」
「構わんさ。困っている時はお互い様だからな。それより俺たちは明日、ここを引き上げてムーンペタに帰還するんだが、よければお前たちも一緒にどうだ」
 こちらを気遣う提案を受けたが、アスティアは即答した。
「いや。折角だが、私たちはルプガナを目指している」
「するとドラゴンの角を渡るつもりだったのか? 残念だが塔を結ぶ橋は壊されていて、今は先に進めないぞ」
「承知済みだ。それでも行かなければならない。一か八かではあるが、渡る手立ても用意してある」
「ほんとか? どうやって渡るつもりだ」
 尋ねられ、アスティアは一瞬悩んだ。
 風のマントを使う。その道具は、ムーンブルク機密だとルナフィーリアは言った。であれば、気軽に口にする事は避けた方がいいだろうと察する。
「恩人にこのような事を申し上げるのは心苦しいのだが、それを御教えする事は致し兼ねる」
 マリオンはアスティアの返答に一瞬黙ったが、直ぐに破顔して頷いた。
「そうか。まぁ、この時勢に命がけで砂漠を渡ってたんだ。何か退っ引きならない事情でもあるんだろうよ」
「すまない」
「気にするな」
 ニッと口角を上げ、流してくれたマリオンに安堵して、アスティアは目を閉じ礼を取る。
「有り難う。この恩は必ず御返しさせて頂く」
「おう、期待しているからな」
 マリオンはエリノルと目配せし合い、豪快に笑って受け入れた。
「そういえば、あの二人戻ってこないわね?」
 ふと気づいたように言うのはエリノルだ。
「今日は月が出ているから冷え込むわよ。あのコ薄着だったし、男のコも病み上がりでしょう。そろそろ戻ってくるように言った方がいいわ」
「了解した」
 アスティアは頷き、二人を迎えにテントを後にする。

 外に出ると、先程戻ってきた時よりも幾分か冷え込んでいた。広野とは違い、砂漠の気候は変わりやすく気温の変動も激しい。
 見上げれば月が出ていた。
 明るい足元の中、二人を探して少し歩く。談笑がもれ聞こえるテントがいくつか立ち並ぶキャンプ地を抜け、少し離れた場所に二人はいた。並んで広い砂漠の景色を見つめる格好で立っている。会話をしている気配はない。
「セシル、殿下」
 彼らに近づいて声をかけると、二人は同時に振り向いた。
「キャラバンは明朝、このオアシスを発つそうだ。そうなれば私たちも出立しなければならない。故に、ゆっくり休めるのは今夜だけになってしまう。早々に中へ戻り、身体を休めて頂きたい」
「そうなんだ……わかった。ルナフィーリア、行こう?」
 セシルは頷き、隣のルナフィーリアを促した。
 しかし、彼女が素直にアスティアの言葉へ従う訳がなかった。ルナフィーリアは無視を決め込んだように目を逸らし、セシルに言う。
「私はもう少し、ここで月を見ていたいの」
「でも」
「いいから、先に戻っていて頂ける?」
 やはり頑として譲らなかった。アスティアは彼女の側に行き、
「殿下」
 有無を言わせない口調で念を押した。セシルはこっそり口元を手で隠す。その意味は、ルナフィーリアの態度が示すように――
「いい加減になさって。何度同じ事を言わせるおつもりなの」
 はっきりとした怒りを顔に見せ、ルナフィーリアは語調を強めた。アスティアは内心はっとしたが引き下がる訳にもいかない。回復に向かう体調を崩されては話にならないのだ。
「先程、エリノルに靴の事を御聞きした。貴女の容態に気づく事が出来ずにいた事を、どうか御許し願いたい。良好に向かう状態が悪化しては元も子も無いと存じ上げる。夜の砂漠は御身体に障ります故どうか、中へ」
 その一言で、ルナフィーリアはついに顔を紅潮させて震えた。
 拳を振り下ろすように感情を爆発させ、アスティアに向けて怒鳴った。
「貴方はいつだってそう……ッ、私が欲しい言葉と真逆な事ばかり! 私は貴方が大嫌いですわ……ッ!」
 アスティアは顔色こそ変えなかったものの、心がぐら付く感覚を知った。
 ……面と向かってはっきり言われたのは初めてだ。
 それでも感情を押さえ、冷静に対処すると決意したのは自分だ。気を取り直して彼女を見つめる。
「それでも結構。しかし今は殿下の、――!」
 言いかけて――アスティアはふと表情を一変させた。異質な気配を察知した。彼は視線をルナフィーリアから移して空を見る。その時耳に入ったのは微かな無数の羽音だった。慎重に視線を彷徨わせれば、月光に照らされて旋回している何かが。
「あれは――リザードフライ!」
 ほぼ同時期に気づいたセシルが咄嗟に声を上げ、構えた。
 ルナフィーリアの眼は彼らへ釘付けになる。
 アスティアは間合いを計り、腰に下げていた剣の柄に手をそえる。
 しかし、数秒経っても彼らが近づいてくる気配は見受けられなかった。ある一線から入って来ず、苛立った様子で周囲を旋回しているだけなのである。
 セシルがハッと声を上げた。
「そうか。魔物避けの聖水が効いてるから、彼らはここまで入って来られない」
 一応は安堵して構えを解き、槍を下げた。無駄な戦闘は避けたい、彼らしい判断だった。アスティアは頷き、柄から手を離してルナフィーリアを見る。彼女はまだ魔物を見つめたままだ。
「殿下、早く中へ。聖水が効いているとしてもここは危険だ」
「そうだよ、行こう」
 セシルは立ち尽くしたまま動かないルナフィーリアの手を引き、戻ろうと促したその時だった。
「――ッ!」
「なッ?!」
 ルナフィーリアはその手を払い、セシルを驚かせた。
 ――魔物を目にした途端、彼女の胸中に一層激しく燃え上がったのは復讐の炎か。彼女はローブの裾をひらめかせ、結界の一線を越えて飛び出した。
「私の事は私が決めるのよ……誰の指図も受けないッ!」
 ルナフィーリアは唸る様に呟いて呪文の構えを取る。リザードフライたちは結界の外に出て来た彼女に羽音を荒げて喜ぶ。
 濃紺と白の絶景が戦場に変わる。
「ルナフィーリア!」
 セシルの声が届かない。
 ルナフィーリアは数匹のリザードフライ相手にバギをぶち放つ。途端に巻き起こる豪風と、魔物たちの奇声。
 目を見開いて固まるセシルを残し、アスティアは奥歯を鳴らして剣を抜き払い戦地に走る。
「ルナフィーリアッ!」
 名を呼ぶと、彼女はこちらを見た。
 冷たい月光を髪に宿して乱し、冷酷な狂気をむき出しにしたポピーレッドの瞳。唇に笑みすら浮かべて見せたその凄みに、アスティアは一瞬背筋がぞくりと張る感覚を知る。
 アスティアが見せた一瞬の躊躇、ルナフィーリアは視線を外し、次の得物を猟りに呪文を詠唱する。
「バギッ!」
 吹き荒れる風が、次々にリザードフライたちを引き込み切り刻んで行く。すでに絶命している個体であろうと、構わず。
 瞬く間に全滅させ、それでも彼女は次の詠唱を止めない。遺骸の原型が分からなくなるほど刻み続ける異様な姿に、立ち尽くしていたセシルがようやく我に返る。
「ル――ルナフィーリア、止めるんだ!」
 セシルはアスティアを追い抜き彼女に駆け寄った。ルナフィーリアは彼を払いのけ、ぎらついた眼で荒い呼吸を繰り返し、尚も――
「バギッ、風の刃よ――ッ!」
「もう終わってるっ! 全部倒してる! それ以上魔力を使うのは無駄だよ!」
「殺すわ――全部、魔物なんて全部殺してやる! 殺してやるッ!」
「ルナフィーリアッ!」
「私に触れるなッ!!」
 押しとどめようと伸ばされた手が、乾いた音とともに叩き落とされる。セシルは顔をゆがめた。ルナフィーリアは追い討ちをかけるように低い声で凄む。
「邪魔をするなら貴方だって殺してもいいのよ……ッ!」
 そのポピーレッドに宿るのは、触れられる拒絶。
「……そうよ、貴方の優しさが一番邪魔だわ……ッ!
 私はこの世の全ての魔物を殺すまで止まらない。魔物を消して、ハーゴンを殺して、私はムーンブルクの仇をとるのよ……。私に残された道はきっとそれしかない。
 ……そう、私にはもう怖いものなんて無いもの。失うものが無いから――ッ!!」
 身も世もない、喉を裂くような絶叫だった。
「――……」
 アスティアは動けなかった。声すら発することが出来ない。
 人間の、これ程までに深い憎悪の感情を目の当たりにするのも初めてだった。
 肩で深い呼吸を繰り返し、ルナフィーリアはセシルを睨み続けている。
 セシルはその視線を受けたまま動かない。
 風は止んでいる。
 音も無い。
 まるで時が止められてしまったかのように凍り付いたその場で、ある時ようやく、一人が時間を動かした。
 身動き一つ取っていない。しかし、異様な変化はその表情――。
 月が照らすその顔を目の当たりにした時、激昂していたルナフィーリアは動揺する。
 ゆるゆると瞠目し、
「……、何故、貴方が泣くの」
 震えた声で尋ねた。
 セシルは泣いていた。
 音もなく、声もなく。反響する静寂の中で、堰を切ったように頬を濡らす幾筋もの涙。
 そして彼は答える。
「君が、泣かないから」
 それは哀れみではなく、心の底から悲しそうな顔で――セシルは泣いた。
 ルナフィーリアは言葉を失い後退さる。セシルは腕を伸ばして捕まえ、逃げかけたルナフィーリアを抱き寄せた。その華奢な背に、まるでしがみつくかのように腕をまわして強く抱き締める。
 ルナフィーリアはその腕を振り解く事が出来ず、顔色を失う。
 アスティアは二人に近づく事が出来ずに佇んだまま、胸を突かれる思いに襲われていた。
「アスティア、さっきの嵐みたいなのは何だ――……あ?」
 先程の騒ぎに駆けつけたのか、マリオンが背後から声をかけてきた。そして状況に疑問符を浮かべる。
「いや……もう、片付いた。問題は無い」
 困惑しているマリオンにそれだけ答え、アスティアは二人から目を逸らした。

 ――こんな女、どうやって支えればいい。

 アスティアは自問自答する。
 どうすればいい、自分は。
 どうすれば彼女を救ってやれるのだろう。
 どうすれば、あの頃に見た笑顔を取り戻すことが出来るのだろう。
 少なくとも自分には、セシルのように泣き、抱きしめるような事など出来ない。ただでさえ避けられ、敵意をむき出しにされている自分にはどうすることも――。
 入り込めない。
 できない。
 判らない。
 ……判らない。

 青く沈んだ夜の砂漠。再び吹き出した風の乾いた音が、セシルの嗚咽で静かに濡れる。
 ――ただただ、遣る瀬無かった。




◆    ◇    ◆    ◇


 キャラバンと別れた朝、アスティア達は再び砂漠を進んだ。その翌日には砂漠を抜け、半乾燥気候下の草原地帯を北に進む。そして半島の先端に立つ塔を見つけたのは、ムーンペタを出立し、二週間は過ぎていた頃だろうか。
 目的としていたドラゴンの角。その双子塔は、怒号を上げて吹き荒ぶ風の海峡をはさんで建っていた。
 様子を伺いながら内部に侵入すると、その一風変わった作りに驚かされた。
「足を踏み外したりなんかしたら大変だね」
「即死だろうな」
「怖……ッ」
 短く感想を言い合い、頭上を見上げる。塔の内部にも関わらず青空が見える。
 この塔は、完全な吹き抜けだった。
 上に登るためには塔の壁に添い、ぐるりと続いている階段を延々と進まなければならないようだった。何層かに別れて踊り場はあるものの、狭く心許ない印象を受ける。
 そして最悪な事に、魔物の気配は濃い。ちらちらと見え隠れする彼らの影に気配を極力殺し、息をのむ。戦うには環境が悪すぎる。出来るだけ避けたかった。
「……ルビス様。どうか、無事に登り切れますように」
 祈りを口にするのはセシルだ。
「では、行くとしよう」
「うん」
 アスティアの声にセシルは頷いて、ルナフィーリアに目配せする。しかし彼女は目を合わせようとはせず、一言も喋らない。アスティアは出来るだけ気遣うような声で、
「殿下もどうか、足元に御気を付けて」
「……」
 返事はやはり無かった。後について、黙々と歩き出す。
 彼女はあの夜から、急激におとなしくなってしまった。
 そしてアスティアの対応は、いつしか腫れ物を扱うようなものに変わっていた。


 おばけねずみ、マンドリル、お馴染みマンイーター――隠れても逃げても結局は襲ってくる魔物達と闘いながら、三人は階段を登り続けた。
 中腹に、かつて橋が架かっていたと思われる階もあったが、話に聞いていた通り壊された跡だけが残されていた。それを横目で素通りし、更に上を目指す。
 丸い塔に添って螺旋状に続く階段は狭く、息をつける場所と言えば階層ごとの踊り場のみ。それぞれの体力を考慮しながら、休み休み登り続けた。

 吹き抜けから覗く空が大分近づき、そろそろ終盤に差し掛かった頃だった。
「はー……。流石に、きつくなって来た」
 額の汗を拭い、セシルが呟いた。
「後少しだとは思うが――とりあえず私は向こうの様子を見てくる。ここで少し、休憩しているといい」
「うん……ごめん」
「気にするな」
 セシルの謝罪をいつものようにかわし、アスティアは次へ続、階段の様子を見に向かった。その背を見送って、セシルは壁にもたれて息を整える。
「ルナフィーリア、大丈夫?」
「……」
 案の定、返事は無い。ルナフィーリアもひどく息を切らしている。見て欲しくなさそうに顔を背けられてしまったので、セシルは仕方なく彼女から視線を外した。
 セシルだけは、あの夜を越えても対応を変えなかった。いつものようにアスティアに接し、ルナフィーリアを気遣いながら勤めて明るく接している。
 もっとも、ルナフィーリアにはそれこそが堪えているようではあったが、彼はあえて対応を変えなかった。
 救い上げられるものならば救いたい。セシルなりに、必死の対応ではあった。
 二人は、アスティアが戻るまでしばし、黙ってその場に留まっていた。
 そして重なる疲労に両者とも、その接近には気付く事が出来なかった。
 先程登って来た階段から、静かに浮遊する魔物が忍び寄っていた。それは、無数の蛇を身体に飼う、一つ目の魔物――メドーサボール。
 メドーサボールは気づかれぬよう接近し、ルナフィーリアを得物に捕らえ、数匹の蛇を彼女の首目掛けて走らせた。
「――ッ?!」
 前触れも無く急激に喉を締め付けられたルナフィーリアには、悲鳴を上げる暇もなかった。取り落とした杖が甲高い音を立てて転がり、セシルに事態を知らせる。彼は振り向いて驚愕した。
「ちょ……ッ、ルナフィーリア! この――ッ!」
 驚きのあまりうわずった声を上げながらも、セシルはメドーサボールに掴みかかった。
「どうかしたか!」
 事態に気付いたアスティアも戻って来る。セシルは必死の目配せをし、せめて彼女の首に巻き付いている蛇を引きはがそうと、咄嗟に抜いた小刀を力一杯突き立てた。メドーサボールは全身で暴れ出す。
「――きゃッ」
「うッ」
 衝撃でルナフィーリアの身体は床に突き飛ばされ、セシルの身体は壁に叩き付けられる。そして、
「ぅわっ……――――!」
 まさに運が悪いとしか言い様が無かった。
 劣化した塔の、壁に走っていた亀裂。セシルはそこをぶち抜いて、外に投げ出される!
「うそ」
 一瞬彼に浮かんだのは、信じられない、そんな表情だった。
 そして重力に従い、
「セシル!?」
 即座に駆け、咄嗟に伸ばしたアスティアの手は無情にも空を切り、
「わあああああ――――ッ!」
 セシルはそのまま遥か下へと急降下していく。
「セシル……ッ、セシル――――ッ!」
 アスティアは腹の底から名を絶叫するが、反響するばかりで返事は戻らない。
 背後ではまだ、セシルに傷つけられて怒り狂っているメドーサボールが狙っている。
「クッ!」
 アスティアは剣を突き出し、中央に見え隠れする眼に命中させる。絶命させた。一瞥して再び、セシルが投げ出された穴に視線を戻す。やはり既に姿は見えない。
 アスティアは、全身の血が引き冷める感覚を知る。
 相変わらずびゅうびゅうと音を立てて吹き荒れる風の音が耳障りだ。
 同じく側で下を見るルナフィーリアは、顔面蒼白で震えている。
「どうし……ッ、私が、」
「来い!」
 アスティアは舌打ちし、硬直しているルナフィーリアの手を引いて来た道を駆け下りた。
 心臓が、痛い程高鳴っている。
 あの高さでは助からないのは明白、しかし、――ッ!
 どう考えても、下に降りれば彼の死体しかないだろう。
 悪寒に背筋を凍らせながら、それでも階段を駆け下りた。
「おーい」
「――ッ!」
 だいぶ下まで降りた頃、聞き覚えのある声が耳に届いた。
 もう一度耳をすませてみれば、
「おーいアスー、ルナフィーリアー!」
「な、セシル……ッ?」
 嫌なシーンばかりが脳裏を過っていた為、その再会には目を疑った。
「いや……死ぬかと思った……」
 セシルは息を上げてこちらに駆け寄り、膝を両手で押さえて苦笑を覗かせた。
 言いたい事が多すぎる。動揺を抑え、ようやくまとめて出せた言葉は、
「何故」
 その一言だった。
 セシルは無事だった。しかも傷一つ作った様子もない。まじまじと彼を見つめていると、セシルは背中のマントを片手で掴み、広げてみせた。
「ほら、このマントのお陰だよ。僕ももう駄目かと覚悟したんだけど、何か、落下途中で急にふわっと浮いてさ」
「風のマントか」
「そう。気に入って付けてて良かったー。まさか、コレに助けられるなんて思って無かったよ」
「……では、試すまでもなく効果が実証された訳か」
「うん。禍い転じて福と成す、だねー。このマントはやっぱりすごい!」
 そこで心配事を吹き飛ばすよう、いつもどおりにふふりと笑うセシルに脱力した。
 彼の姿が消えた時、一体、どれだけ心配した事か。
 そこで改めて肩の荷を降ろし、肺の息を細く抜く。ついでに掴んだままだったルナフィーリアの手を離した。すると彼女はへなへな座り込んでしまう。その目は見開かれたままだ。
「ルナフィーリアもごめんね。大丈夫だった? 怪我は無いかい?」
「私は、なにも」
 座り込んだまま震える声で答える彼女に、セシルはホッとしたように目尻を下げた。
「そうか。君が無事でなりよりだよ」
 ルナフィーリアにはもう、何も言えない。黙ってセシルの顔を見上げるだけだ。
 そんなセシルは更にはっと手を打ち、顔を輝かせてごそごそと荷物を探り出した。
「後コレさ。なんか、昇って来る時に拾ったんだ。よくわからないけど」
「よくわからないものを拾うな」
「だって綺麗だったんだもん。ほら」
 さらっと言い、セシルは荷物から細長い何かを引き出してみせた。
「これは糸、か? 随分不思議な色をしているようだが」
 アスティアはそれを観察して首をひねる。触れるとひんやり冷たい、青に近い寒色の糸。どんどん鞄から引き出されるそれを、束ねるように巻き取りながら受け取る。よく見ると、糸の中には液体が流れているようにも見受けられた。
「これからは強い魔力を感じるんだ。売ればお金になるかもしれない。資金は少しでも多い方がいいでしょ?」
「それはそうだが、何もこんな時に金策まで考えずとも」
「でも砂漠越えの準備した時で既にギリギリだったしさ。ラッキーだよ」
 アスティアはそれ以上の言葉を失い、ただただセシルを見つめることしか出来なくなった。
 ――何故そんなにも得意げだ、セシル。
 彼の思考回路が改めて理解できない。そう思った。あの高さから落ちる経験は相当怖いものだったはず。しかし、彼のいつもと変わらないこのマイペースっぷりは何なのだろう。
 その、セシル全開の展開に焦れたのか、
「いい加減になさいよ!」
 唐突にルナフィーリアが怒号を上げた。見遣れば彼女はいつの間にか立ち上がっており、更に興奮した表情でセシルを睨んでいる。
「貴方、どうして私を責めないのッ!」
「どうして、って」
「私が魔物に気付かなかったせいで死にかけたと言うのにどうしてッ?!」
 頬を紅潮させて問う彼女に、セシルは困ったように頬をかく。
「んー……責めても得は無いと思ったから、かなぁ。僕にも落ち度はあったし」
「もう一度言うわ、貴方は死にかけたの! そんな目に合わせた私には制裁を与えるのが筋ではないの!」
「そんなの意味が無いよ。それより僕は、君が大丈夫だった事に安心したから」
「私は、――ッ」
 ルナフィーリアは言いかけて止め、俯いて震える。セシルは目尻を下げて微笑んだ。
「……そっか……。吃驚したよな。僕も大丈夫だから。吃驚させて、本当にごめんな?」
 まるで、妹にでも語りかけるかのような穏やかさだった。どこまでも優しく宥め、彼女の頭を撫でる。ルナフィーリアはびくりと竦んだが払うような事はせず、ただ、唇を噛み締めて震えた。
 その反応にセシルは満足したように笑い、今度はポンポンと撫でて姿勢を正した。
「それじゃ、行こうか」
 踵を返し、颯爽と歩きはじめた背を見つめてアスティアは思う。

 ――セシルには多分、敵わない。

「どうして、そんなに」
 ルナフィーリアの呟きは誰に届く事も無く、風にさらわれて流れて行く。




◆    ◇    ◆    ◇


「ここを、越えるのか……?」
「うぅ……一回降りてるのに背筋がスッとした。怖いなぁ……ッ」
 両腕をさすり、セシルが震える。アスティアは同感だと、眼下の遥か向こうに存在する急流を見つめて思う。案の発端者であるルナフィーリアに至ってはもう、青ざめたまま言葉すら無い。

 改めて塔を登り直し、三人はドラゴンの角の最上階に立っていた。
 ごうごうと、北に向かって吹き抜ける風。
 あまりにも、高い。
 高い所はもともと嫌いではない。普通に暮らしていては見られない、遠くまで見通す事の出来る高所は爽快さもあり、正直に好きだとアスティアは思う。しかし今は別だ。
 なにせ、この高さから飛び降りる前提で地上を見下ろしているのだから。
 並んでしばらく、呆然と立ち尽くした後。
「……でも、まぁ……やらなきゃいけない事だしね」
 そこで、やけに明るく切り替えたのはセシルだ。
「上手くいけばきっと気持ちいいよ。空を飛ぶなんて経験、なかなか出来る事じゃないしさ!」
「前向きだな」
「形はどうあれ、飛ぶのは二度目だしー。ネガティブに考えても仕方ないでしょ。はい」
 セシルは笑いながら風のマントの留め金を外す。そして、おもむろにアスティアへと差し出した。意図が読めず、アスティアは疑問符を浮かべる。
「何だ」
「真ん中に君、が、一番バランスいいと思う。僕だと傾きそうだから」
「そうか」
 納得し、アスティアはセシルからマントを受け取った。早速装備してみるが、まるでつけている事を忘れてしまいそうな程軽い。
 俯いているルナフィーリアに視線を移すと、彼女は顔を上げる。アスティアは脇を空け、
「御嫌だとは察するが」
「……いえ」
 今はやけに素直だった。指をすっと伸ばし、こちらの身体に腕を回してくる。しがみつく身体は恐怖のあまりか小刻みに震えている。彼女も相当な恐怖心と戦っているのだと察し、安心させるようにしっかりと腕を回して抱きかかえた。
「さしずめ両手に花ってトコ?」
 既にちゃっかりと、左側に抱きついていたセシルは洒落混じりに半笑いだ。
「重責に潰れそうだ。下手な事を言っていると落とすぞ」
「くははっ、それは勘弁してー」
 軽口を叩き合った所で、塔の先端から着陸ポイントを見定める。風のマントが機能しなければ即死。しかしここで死ぬのなら、それまでの力量しか持ち合わせていなかったという事だ。
「ルナフィーリア、絶対大丈夫だから」
 セシルが優しい声でルナフィーリアを勇気づけ、彼女の腕に触れる。彼女自身はギュッと目を閉じたまま僅かに頷いた。
 大きく深呼吸し、決意する。
「行くぞ」
「よし!」
 声をかけ、返答が来た所で助走を付け、一気に踏み切った。三人の身体が宙に浮き、そして、
「きゃ……あ、きゃあああああ――――ッ!」
 突き破る勢いの悲鳴が脳天まで轟いた。
「ゥ――鼓膜が裂ける」
 耳元だった為意図せず声が出てしまったが、轟音を斬って落下する風の音でかき消えた。
 ある程度まで落ちた頃。
 不意に身体が軽くなり、全身にのしかかっていた重力が消えた。音も静かになって行く。流れる景色もゆっくりに変わった所で、セシルが歓声を上げた。
「うわああー! 二人とも見てる!? すっごい綺麗だねー!」
 その声に、着地点ばかりを見つめていたアスティアは初めて顔を上げた。
「……!」
 そして確かに美しいと、思った。
 そこに広がるのは、遮る物もないパノラマ。
 青、青、水平線、地平線、緑、重なり合う稜線、大地に走る河川の煌めき――全てを分け隔てなく照らし行く陽光の濃淡は、ただただ美しかった。見蕩れていると不意に、右側にしがみつく細い腕に力がこもったのを感じる。
 アスティアは目を細め、二人を抱える腕を少しだけ、強めた。

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