LEVEL:07  すべてを奪う代わりに



   LEVEL:07  すべてを奪う代わりに

 しっとりと、芽吹きに薫る春の夕。
 撒かれた水がちらちらと煌く、残照のローズガーデン。残り陽は、穏やかな表情で佇む王女の顔をも柔らかく照らす。
 金糸の巻き毛を結い上げ、国色の赤を基調にした羽織に、白のロングドレスを美しく着こなす王女。その高貴なポピーレッドの瞳は、少し先に望めるのであろうローズガーデンの姿を期待し、喜びに輝いていた。
「ばらの季節まで、あと少しね」
 瑞々しく丸みを帯びた、柔らかな葉。しなやかに伸びた茎の先端には、ふっくらと紅を覗かせたつぼみが顔を覗かせている。もうすぐ咲こうとしている沢山のそれを確認し、王女は幸福なため息を零した。傍らの侍女は頷いて、
「庭師の話ですと、今年は気候もよく良好な生育なのだそうですよ」
「そう。楽しみね」
「はい、王女様」
 王女は優しく目尻を下げ、侍女と微笑み合う。
「おお、ここにいたのか」
 その時、背後から声をかけられた。低く通る甘さを帯びた声。その主は確認せずともわかった為、王女は表情を一層輝かせて振り返る。
 王女の視線の先に立っていたのは、彼女と同じ色の髪と瞳を持つ初老の男性。豪華な深紅のマントを羽織り、頭上には王冠を戴いている。圧倒的な威厳を放つその人物は、王女の父にして、この国の王でもあった。
 父王は近衛の供を少し下がらせ、王女の隣に立つ。王女の侍女も一礼して下がった。
「王女を捜すならばまずローズガーデン、とはよく言ったものだ。そなたは相当、此処が好きなのだな」
「お母様の愛するローズガーデンですもの。大好きですわ」
 王女は屈託なく微笑んで答え、視線をローズガーデンに戻した。父王は白いものが混じり始めた金糸の口ひげに触れ、複雑そうに目を細め、
「……あれも昔から、第一声にはまずこのガーデンの事を気にしておる。確かに此処は美しいが——、少々妬けるのう」
 苦笑いを含んだ言葉尻。
「まあ!」
 王女は父王の発言に小さく吹き出した。その口元を隠すように一度両手を当てたものの、結局大輪のばらがほころぶように笑い出してしまった。
「笑う事は無かろう」
「ふふっ、申し訳ございません。けれどご安心下さいませ。私が、一番に愛しているのはお父様よ!」
「む……そうか?」
「ええ!」
 肯定して、王女は父王を見上げる。大人びたものの、まだ少女を残すその笑顔はまるで砂糖菓子のように無邪気。父王は一瞬、その威厳を損なう程に頬を緩ませた。
 そうして見つめ合う事しばらく。背後に控えている近衛や侍女が、クスクスと笑みをかみ殺している事に気付く。それにはっとしたのか、父王は気まずそうな咳払いでごまかした。
 王女は満足したようにクスリと笑い、いたずらっぽい眼差しを残して視線を外した。そしてゆっくりと、花の表情を曇らせていく。
「む……如何した」
 様子の変わった王女を案ずるように、父王は尋ねる。王女は頷いて、
「お父様。お母様のご容態はお聞きになっておりますか」
「ああ……。先程、此処に来る前に顔を出してきた」
「そう、ですか」
 王女は胸元で手を握り、瞼をギュッと伏せる。その長い睫毛は憂いに震える。
「お母様は、私たちがこうして楽しい時を過ごしている間も苦しまれていらっしゃるのかと思うと、遣る瀬無くなってしまうのです」
 母である王妃はもともと病弱だったが、昨年の秋口に大病を煩い倒れ臥せったきり、現在も一日のほとんどをベッドで過ごしている。そんな王妃はここ数日の寒暖差、季節の変わり目で一層弱り果てていたのだった。
 王女が動くたび、豪奢に揺れるドレスのフリル。裾が汚れぬよう注意を払いながら、王女は手元に近いばらのつぼみにそっと触れた。まだ少し堅いつぼみ。これから先の季節に咲き誇るであろう、深紅の大輪に思いを馳せる。
「……早く咲かないかしら。早く、お母様に見せて差し上げたい」
 祈るようにつぼみを両手で包んだ後、王女はぱっと振り返って父王を見上げる。
「お父様。此処のばらが咲いたら、真っ先にお母様のお部屋へ届けて差し上げましょうね」
「そうだな。喜びのあまり、快復してくれるやもしれぬ」
「ええ、きっと」
 不安を払拭するように柔らかく笑んだ王女に、父王は穏やかに微笑んだ。そして彼女の肩を優しく抱きよせる。その温かさに驚いた王女は、父王の顔を見上げて首を傾げた。
「突然……どうなさったの、お父様」
「いや。……ふふ。そなたが慈悲深く、優しい娘に成長している事が嬉しいのだ」
 王女はそっとはにかみ、頬を薄ばら色に染める。そして温かな父王に寄り添うように少しだけ体重をかけ、愛情を噛み締めるように目を閉じた。
「さぁ、ここは冷える。そろそろ中に戻ろう」
「はい、お父様」
 春とはいえ、夕刻は冷える。残照もすでに僅か。父王が手を離した際に吹き込んだ冷たい風に、王女は羽織の襟を合わせた。そして城内に戻る際、振り返って不意に見上げた東の空に、
「――!」
 王女はその異様さに、息を呑んで身動きを止めた。
「……あれは、月?」
 そこには、昇りたての大きな満月が覗いていた。その不吉なまでの赤さは血を連想させ、王女は背筋にぞくりと走る悪寒に柳眉を潜める。
「なんと……、随分と不吉な色の月だが、――」
 同じような表情で父王は月を凝視し、やがてその表情を険しく変えた。耳を澄ますように黙った父王に、王女は疑問の視線を向ける。
「お父様?」
「上空に何かが居る。それに、城内が騒がしい」
 近衛兵もその様子に感づいた様子だった。周囲を警戒し、手にしていた槍を構えたまさにその時だった。遠く城内で、何度かの爆音が響き渡る。
「陛下!」
「ぬう、これは……! 一体何が起こっておるのだ。誰か、誰かおらぬか!」
 王が声を荒げると、廊下の奥から兵士が駆けてきた。
「陛下! 大変でございます、て……ッ、敵襲です! 魔物の大群が、ムーンブルクのお城を取り囲んでおります――!」
「なんだと! 何者だ」
「魔物を操る総大将の名は大神官、ハーゴンと……!」
「聞かぬ名だが――いや、こうしてはおれぬ。余もすぐに向かう。兵士たちを集めよ! 状況を見極め、全力で民を護るのだ!」
「はッ」
 勅命を受けた兵士は一礼し、声を上げながら城内へ駆けて行こうとしたのだが――!
「ああっ!」
 王女は悲鳴を上げた。見た事も無い異形の者――魔物が数匹、空より来襲してきた為である。兵士の背後に迫る魔物。彼は、振り返る間もなく放たれた炎に包まれて絶叫する。
 絶命する兵士を尻目に、宙に浮かんだ数匹の魔物は舌なめずりするようにこちらを見据えていた。
「おのれ……!」
 父王は王女を庇うよう手を広げ、手にしていた杖を振りかざして叫んだ。
「風よ。悪しき者どもを切り裂く、輝きの刃となれ――バギッ!」
 父王の放ったその呪文は、襲いかかってきた魔物を撃ち落とす。近衛兵はすかさずとどめを刺した。
 騒然となる場。地面に膝をつき、震えで声も出せない王女。父王は王女を抱き起こすように立たせる。
「お父様……何が、起こっているのですか」
 状態を把握できない王女は狼狽しきった瞳を上げる。父王はそんな彼女の肩を掴み、
「よいか。ムーンブルクは今、敵に襲撃されておる。余は、この城を守る為に戦わなければならない。そなたはこの事態が収まるまで、向こうの地下室に隠れておるのだ。けして、其処を出てはならぬぞ」
「い――、嫌ですわ、お父様が戦うのでしたら、私も!」
「ならぬ。そなたはこの国にも、この余にとっても大事な身……何があろうと、例えこの国が崩れようとも生き延びなければならぬ!」
「お父様……ッ!」
「大丈夫だ。余が、この命に代えても護ってみせる。なあに、余とて勇者ロトの末裔。そう簡単に落とさせはせん。――よいかそなたら、王女を、くれぐれも」
 傍らで周囲を警戒する近衛兵と侍女はそれを受け、強く頷いて王女を促した。
「御意にございます。――殿下、こちらへ」
「嫌よ、離して」
「王女様、お早く!」
「いや、離してぇッ! お父様ッ!」
 混乱で泣き叫ぶ王女を、半ば強引に地下へと連れ行く近衛兵と侍女に頷き、父王は立ちはだかるように杖を構えた。その先方には、次々に空から滑降して来る魔物たち。
「魔物どもめ――、この身が灰になろうと、我が娘には指一本触れさせぬッ!」
「お父様ぁ――――ッ!」
 王女の絶叫は、炎に包まれ崩れ行く白亜の瓦礫に消される。
 燃える。
 風が煽る。
 燃える。
 燃えて行く。
 母の愛したローズガーデンも、父が守り抜こうとした城も、国も、――何もかも。
 この日、王女が地上で見た最後の光景は、挑み、そして燃え行く父王の姿だった。




◆    ◇    ◆    ◇


 ――残照が街を燃やす。
 長く伸びた黒い影が、街を飲み込もうと広がり続ける。
 その頬を照らすのは、あの時と同じ色。しかし、決定的に違う色。

 まばたきを一つ、回想を消すように。その間も刻々と暗がりに包まれて行く部屋。
 王女――ルナフィーリアは、父譲りの美しい金糸の巻き毛を一房指に絡め、するりと放った。残り陽を受けて僅かに輝く髪は、ふるりと揺れて元の場所に流れて行く。
 夕刻。光がどんどん失われて行くこの時間が、今でも一番怖いと思う。赤く大きな月が昇り、空から魔物が飛来して、大事なものを次々奪い去ってしまうのではないかと――。
 胸を押し潰すような、漠然とした不安。払拭するように小さくため息を零し、窓から視線を外した。
 傍らのベッドには、スケッチブックを手にうたた寝をしているセシル。向こうの窓際には、黙々と武器の手入れをしているアスティアがいる。ルナフィーリアはうつぶせのセシルに毛布をかけ、サイドテーブルに置いてあったランタンに明かりを灯した。それを持ち、アスティア側のテーブルに置く。ふわりと灯った明かりにアスティアは顔を上げ、ルナフィーリアを確認して僅かに眉を上げた。意外だったようだ。彼は僅かな間の後、
「助かります」
 抜かり無く丁寧に礼を述べてくる。ルナフィーリアは無言で通り抜け、部屋の戸口に向かった。
「殿下、どちらへ」
「あなたには関係、――。いえ……少し、外の空気を吸いに」
「完全に暗くなる前には御戻り頂きたい。夜の街は幾分、物騒故」
 ルナフィーリアは振り向かない。いつだって自分を案じるアスティアには嫌気がさすが、回想の感傷か、今は少しだけ素直な気分だった。
「ほんの数分外に出るだけ。宿からは離れませんわ」
 素気なく言い放ち、彼女は返答を待たずに部屋を出る。
 ドアの向こうは開放的な空気に満ちていた。夕食時のざわめきで賑やかな街並み。潮風と、食事の香りの混ざったような香りが鼻孔をくすぐった。
 ペールバイオレットに染まる東の空には、白く輝く星が一粒浮かんでいる。月は無い。
 ドアを背に、彼女は大きく息を抜いて肩を落とした。
(何故、私の周りは、私を護りたがる人ばかりなの)
 アスティアはもちろん、セシルも過保護だ。

『護られる事は罪なのかもしれない』

 ルナフィーリアは、いつしかそう考えるようになっていた。
 気付けば盾のように魔物と自分の間に立ちふさがり、常に傷を作り続けているようなアスティアと、己の身も顧みず愚かなこの身をかばい、果ては高い塔から転落までしたセシルと。
 何の躊躇も無い彼らの行動は、いつだって一歩間違えば死につながりかねない。
 護る側はいつでも命がけなのだ。いつだって。
 現に父王はそうして、命をかけてルナフィーリアを護り絶命した。あの時一緒にいた近衛の兵も、侍女もそう。
 しかし。そうやって護られる事が当然なのだと、無意識ながらに思っていたのかもしれない。少なくとも生まれた日からあの日まで、危険はなかった。
 いつだって、どこに行くにも、何をするにでも、呼べばすぐに誰かが世話を焼いてくれた。食事の安全を護る者もいた。雨が降ればすぐに傘を開き、濡れた身体を拭いてくれる者がいた。僅かな段差でも手を差し伸べられた。
 薔薇の香りに包まれた温かな城の中で、たくさんの人に護られて生きてきた。
 旅を重ねれば重ねる程、今までがどれほど幸福で、恵まれた環境にいたのかを思い知らされる。
 いくら自分の事は自分でと決意しても、結局は自力が意思に追いつけないのだ。
 する事成す事裏目に出てしまう。
「……お父様」
 小さく呟き、胸元に拳を当てる。
「お父様は何故、私などの為に」
 唇を噛み、目をぎゅっと閉じた。

『魔物どもめ――、この身が灰になろうと、我が娘には指一本触れさせぬッ!』

 父の最後の言葉と断末魔は、今でも耳の奥に谺している。




◆    ◇    ◆    ◇


 夕食にと街へ出たのは、日も沈みきった頃だった。
 酒場を兼ねた海沿いの展望レストラン。アスティアは二人を伴い、奥の比較的静かな席を選んで腰を下ろした。洒落っ気の漂う小綺麗な店内はざわざわと騒がしく、色々な料理の香りが混ざり合っている。
 道中、そして店に入ってからもルナフィーリアは無言。セシルは寝起きの為か軽くフラフラしている。アスティアも込み上げる倦怠感で食事どころではなかったが、それでも食べない訳にはいかないので平然を装っていた。
 適当に注文している間、セシルが無造作に置かれていたボトルの水をそれぞれのグラスに次いでくれた。アスティアはそのグラスを手元に引き寄せ、一口喉に流す。緩い炭酸のそれに胸がスッとする。ルナフィーリアもそっと口をつける。セシルは一気に飲み干した。
 溜め息が重なる。
 料理が到着するまで、結局会話という会話は無かった。腹の底から疲れきっていた。
 あの砂漠を超え、ドラゴンの角で風のマントを使い、川を越えた所までは良かった。空を飛び景色で心を洗った時点で、今回のゴールが見えた気がしてしまったからだ。早かった。
 現実は甘くなかった。
 着地した場所は対岸の塔の側。そこから目的とするルプガナまでは、まだ距離があった。その道中で、一行は川向こうより更に強力な魔物達に襲撃されながら進む事になった。とどめの様な目に遭ったお陰で、この街に辿り着く頃にはそれぞれ満身創痍だった。
 四の五の言わず真っ先に宿を取り、最早言葉も無く倒れ込んだのは昨夜。今朝は流石に疲れが抜けず、今日一日を回復に当てて潰してしまった。そして倦怠感に包まれる今に至っている。
 ややあって、前菜が運ばれてきた。ウエイトレスは雑に皿を並べて素っ気なく去って行く。通常ならばその不躾な態度に文句の一つでも付けたくなる所だったが、今夜は違った。視線は必然的に皿へ集中する。前菜はスモークサーモンのマリネサラダ――紅と緑の鮮やかな彩りがドレッシングを絡め取り、照明できらきらと輝いている。
 ルナフィーリアの目はその反射を受けてか、僅かに煌めいた。
「うわ……美味しそ……!」
 ようやく言葉を発したセシルに至っては、今にも泣き出しそうだ。
 アスティアも、無かったはずの食欲が湧いてくる事に気付く。それは久々のまともな、皿の上に美しく盛り付けられた食事だった。今までは野宿続きだった故に簡素で質素な、若干塩っ辛いものばかりの食事だった。食欲が湧かない訳が無かった。
 そこからは主菜のパエリア、魚を丸ごとオーブンで焼いたもの、エビのガーリック炒めなど、魚介類を中心とした料理が並んだ。新鮮な魚介類を食べられるのは港町ならではだろう。三人は――と言っても、セシルは時折美味しいを連呼していたが――別の意味で無言になり、一心不乱にフォークを操った。
 久々の皿料理をゆっくりと堪能し、セシルが切望したデザートが運ばれて来た頃か。
「やれやれ、海にも魔物が現れるようになったせいで上がったりだな」
「ああ。パオロんトコなんか昨日、しびれくらげの大群に襲われて沈没しそうになったってよ」
「マジかよ、おっかねーな」
 ふと、隣のテーブルの会話が入ってくる。ごついのと、細いのと、恰幅のいい男が三人。身なりと程よく日に焼けたその肌から、仕事帰りの船乗りだと察する。
 噂話に耳を立ててしまうのは職業病なのだろうかと、水のグラスを傾けながらアスティアは思う。
「この前も貨物船が一隻、沖で沈んだんだろ」
「ウドルフォさんとこのか。可哀想だな、ありゃ……。全財産海の底に沈んじまったって話だもんな」
「どうなるんだろうな。アレフガルド行きの定期便もとうとう止まっちまったし、いよいよやばいのかもな」
 アスティアは食事の手を止めた。顔を上げると丁度、セシルがスプーンですくったばかりのパンナコッタを皿に落とした所だった。顔を見合わせた後、セシルはそのまま隣に話しかけていた。
「今の話、本当ですか?」
「んあ?」
 突然話しかけた為か怪訝な顔をされる。話を継ぐようにアスティアが尋ねた。
「話の腰を折ってすまない。アレフガルド行きの定期便が止まった、と言う話だが」
「ああ――それなら、つい一週間前だ。ムーンブルクが滅びた後位から急に、海にも魔物が増えてなー。漁師もとより、貨物やってる奴らにもでっかい痛手だぜ」
 ふぅー、と、愚痴ったのは恰幅のいい男。セシルは苦い顔をした。
「……どうも、すんなり行かないね」
「一難去ってまた一難、だな」
 アスティアもややうんざり気味だ。
「何、兄ちゃん達はアレフガルドに渡りたかったのか?」
「そうだ。定期船の他に何か、渡る手立ては無いだろうか」
 即答すると考えるそぶりを見せたのが細い男。やや置いてから、
「だったら街の北にある港の事務所に行くといい。この街の船を取り仕切ってる人がいるんだ。掛け合って、運が良ければ向こうまで船を出してもらえるかも。……ただなー、結果駄目でも恨むなよ? なにせ、この街には面倒くさいしきたりがあってな」
「しきたり?」
 セシルが首をかしげて反芻する。すると、細い男は多少ばつが悪そうに言い澱んだ後、
「事務所行って話してみりゃ分かるよ」
 すっぱりそう言って苦笑いを見せた。何だというのか。気になりはしたが、先に進む足がかりになりそうだと解っただけでも収穫だった。
「恩に着る」
「それよりさ、そっちの綺麗なお姉ちゃんってお前らの連れ? どっちかの女?」
 礼を流し、退屈な話をばっさり切ったのはごついのだ。彼は先程から、奥で黙々と食事を続けるルナフィーリアに興味を示していた。恰幅がいいのも同じだ。
 アスティアは咳払いし、
「連れだが、そのような関係下にはない」
「そう、僕たち親戚みたいなものだから」
 セシルは苦笑交じりに同意する。船乗りたちは沸き立った。
「まじで?!」
「じゃあさ、お前らも一緒に飲まねえ? 折角知り合ったんだしよー!」
 とは言いつつも、彼らの視線はルナフィーリアに釘付けだ。舐めるように見ている。魂胆は言われずとも明白。
 無理もなかった。幾らフードを被り、ローブで露出を極力控えているとは言え、王宮で磨き抜かれて育った彼女の容姿、そして女性らしく美しい所作は一際目立つ。
 誘いに乗るべきではないと察し、アスティアは角の立たぬよう断りの口を開きかけたのだが。
「遠慮させて頂きますわ」
 食事の手を止め、ルナフィーリアは目も合わせずに言い切った。
 その冷たい声に一瞬沈黙が落ちたものの、彼らはこれ位で引く輩ではなかった。
「えー、そんな事言わずにさー」
「別にいいだろ、何か減る訳でもねえんだしツンケンしなさんなって! 楽しくやろうぜ!」
 口々に食い下がってくる。ルナフィーリアはすっと顔を上げた。無表情だ。
「私は先に出ます。どうぞご勝手に」
 アスティアとセシルに向けて言い、彼女は席を立つ。そして、
「煩くて不愉快」
 明らかに軽蔑の視線で言い捨て、入り口に向けて歩き出した。高く留まったその態度に場が凍る。
「なんだ、可愛い顔して愛想の無い女だな」
「そんなんじゃ嫁に行けねえぞーッ?」
 立ち去る彼女の背に、ごついのが野次を飛ばした。残る二人は豪快に笑う。ルナフィーリアはピクリと肩を揺らし、立ち止まった。下ろしている拳があきらかに震えている。
「――やば」
 セシルが席を立ち上がった次の瞬間、ルナフィーリアはつかつかと進んでドアを引き開け、思い切り閉めて出て行った。その音に驚いた店内は一瞬シンとなり、ドアベルだけがガラガラと揺れている。
「あーもう、まだ食べてる最中なのに」
「いい、俺が追う」
 立ったもののスプーンは離さないセシルを押しとどめ、アスティアはスッと席を立った。
「えっ、いいの?」
 セシルの目がうっかり喜びに輝く。感情を隠せないとはこの事か。頷いてやるとすまなそうに、しかし嬉しそうにも見える複雑な顔で皿を引き寄せた。
「じゃあ食べてすぐ行く。会計もしとくから、先に戻ってていいよ」
「頼む」
 セシルに後を任せ、席を離れかけて気付く。先程の船乗り達は明らかに気分を害している。
「こええ、ヒステリックー」
「なんだよあの姉ちゃん」
 こちらから話の腰を折り、親切に情報を貰った手前、無視する訳にも行かない。
「連れがすまなかった。彼女はどうにも気難しくてな」
 アスティアは彼らに詫びを入れ、店側にも騒がせた事を一言詫び、外へ出る。
 店を出て周囲を見渡すとルナフィーリアはまだ、店先の光が届く範囲に佇んでいた。安堵して、アスティアは彼女の背に声をかける。
「殿下」
 すると彼女は明らかに怒りで一杯の目をこちらに向けて来た。そして、
「心外だわッ」
 酷く御立腹だった。無理もない。
「何故私があのような事を言われなければならないのッ!」
「彼らに悪気は無かった。どうか、御許し願いたい」
「セシルはッ」
「会計を済ませてから来る。先に宿へ戻っていても構わないと」
 温度差のあるアスティアの口調に、ルナフィーリアは至極不満げに顔を背けた。
「…………何故貴方なの」
 何故、と言われても。
 察しが付くとは思うが、セシルは食べ残しも嫌う。ついでに甘いものを非常に好むとムーンペタで食事をした時に判明しているので、無理強いして連れてくるような事はしたくなかった。
 旅の道中では、菓子と茶を楽しむ時間など皆無に等しい。せめて街にいる時位はそんな時間があっても良いと、アスティアは思う。
 気を取り直し、不満にふくれた彼女の頬を見ながら告げる。
「戻りましょう。私から離れないで頂きたい。夜の街を貴女独りで歩くのは危険故」
「気遣いなど不要ですわ。何度言わせれば気が済みますの」
 苛ついた様子でいつものように言い捨て、彼女は先に立って歩き出した。その華奢な背に揺れるハニーブロンドを追いながら、アスティアは小さく息をつく。
 何故、気遣ってはいけないのかが解らない。
 先ほどのように、彼女の容姿はやはり目を惹く。そんな彼女を一人歩きさせ、もしもその身に何かあったら――そう思うと心配でならない。
 ルナフィーリアの一歩後ろを歩きながら、宿への道を警戒する。……案の定、酔っぱらいの下心見え見えな視線をちらちら集めている。手を出すなとばかりに威嚇して歩くのは、妙に気骨が折れた。

 あの砂漠の夜から考えた。
 その結果、おぼろげながらも答えが見え始めていた。
 まず、アスティアは彼女に対しては不器用なのだと自覚した。結局接し方を変える事も出来ず、相変わらず怒らせてばかりいる自分は不器用以外の何ものでもない。
 硬い態度しか取れない自分が嫌になる。
 それでも。
 今自分に出来る事は、どんなに彼女に嫌われ不快に思われていようと、彼女をこの腕で、外敵から護る事しかない。
 心を救えないのなら。
 他に何も出来ないならせめて、その身だけでもこの手で護りたい。
 何時からか、そう思うようになっていた。




◆    ◇    ◆    ◇


 翌日、三人は港の事務所へ脚を運んでいた。
 そして、
「駄目じゃ」
 掛け合う間もなく見事につっぱねられていた。
「何故ですか」
 理由も話さず拒否されたので納得がいかず、セシルが問う。机の向こうの老人は――名をルキーノと言い、この街で一番の富豪、そして権力者である――口元に蓄えた真っ白な髭に触れて目を眇めた。
「この街には、よそ者には船を貸してはならないと言うしきたりがあるのでな」
「しきたり」
 反芻して納得した。昨日、船乗りが言っていたのはこれの事か。
「大体。身元の保証もない旅人を、我らの大事な船に乗せるなど言語道断。この時勢だろう?」
「この時勢だからこそ、アレフガルドに行く必要が有るんです!」
 机に身を乗り出したセシルを制し、アスティアはあくまで淡々と話を進めて行く。
「では、身元の保証が有れば船を出して頂けるのだろうか」
 じっと目を見つめ、訴えた。その真剣な視線にルキーノは一瞬黙る。が、
「いや、出さぬな。どうあれしきたりはしきたりだ。例外を作る訳には参らない」
「ここまで挺身に頼み込んでいると言うのに何故ですの」
 この対応には流石にルナフィーリアも噛み付いた。その威圧的な姿勢にルキーノは怯んだが、態度は断固として覆さない。
「再三言った通り船を出そうにも、魔物の影響で戻って来られるかどうかも分からない現状なのじゃ。そのような危険な賭けはどうにか避けたい。我々の生活と命もかかっている。事情を理解してくれぬか」
 頑強な意思を醸し出し、こちらの視線をシャットアウトするよう目を閉じて、ルキーノはこちらの言葉を奪った。アスティアはその態度に小さく肩をすくめ、
「承知した」
 そう答えるしか無かった。勿論、その対応にはセシルもルナフィーリアも黙ってはいない。
「アス!」
「何故? 船が無ければ次に進めないのでしょう!」
 噛み付きそうな剣幕の二人を宥めるように、アスティアは努めて冷静に諭した。
「今、ここでこれ以上の押し問答は意味が無い。一度引くのも手だ。――ルキーノ殿、時間を割いて頂き感謝する」
「期待に添えられず、心苦しいが。諦めなされよ」
 ルキーノはそれ以上取り合いたくないとばかりに話を断ち切った。ルナフィーリアはそれを見た瞬間、不機嫌絶好調の顔で真っ先に踵を返した。セシルはまだ納得しきれていない顔で突っ立っている。アスティアはすれ違い様にセシルの肩をトンと叩き、戻りを促した。やがて、彼も小さく会釈をして後を追いかけてくる。
 結局、押し問答の末は実らなかった。




◆    ◇    ◆    ◇


 きゃっきゃと子供の遊ぶ声がする。穏やかな気候の昼、大通りに面した広場には散歩を楽しむ親子連れが多い。つい数日前までの日常とはかけ離れた光景を眺めながら、軽く脱力していた。
「折角、苦労してここまで来たのにな」
 セシルがため息まじりに吐き出した。噴水のヘリに腰掛け、心底残念そうに空を仰いで。
「国を笠に着て力づくで従わせればよかったのではない。お得意でしょう」
 ルナフィーリアは半眼で突っかかってくる。嫌味な言い方だった。アスティアは内心苦笑し、真顔のまま否定する。
「騒ぎになられては困る。例え権力を着たとしても、ルプガナはラダトームに属する。いくらロト王家と親交の深い国の領とは言え、そう易々と幅を利かせる訳には参らない」
 街灯の柱にもたれて冷静に返すと、ルナフィーリアは苛立ちを隠さずセシルの隣に腰を下ろした。
「不愉快な街ですわ。これからどうなさるおつもり」
「ローレシアに戻り、本国からアレフガルドに進むという手も考慮したが、海流の関係で大きく迂回しなければならず時間を要する。加えて、来た道を引き返す事も今の所不可能。ドラゴンの角の風向きが逆になれば話は別だが、異常気象でも無い限りあり得ないだろうと想定される。
 ……頭の痛い話だが、今の所どうにか船を出して頂く以外に方法は無い。元締めを通さず船を出してくれる者がいれば一番いいが――まぁ、後程改めて交渉に伺うつもりではいる」
 問いにつらつらと答えれば、彼女は端正な柳眉をいっそう逆立てた。
「私はもう行きませんわよ。あの融通の利かない頑固な気質、不愉快でしかありませんわ!」
 今にも八つ当たりが飛んで来そうな雰囲気だった。アスティアは宥めようと言葉を探す。
「ならば、殿下は交渉が終わるまで御休みになられているのが良いかと」
「それは、私など不要だと言う意味ですの」
「そのようなつもりで言った訳ではないのだが」
「そうとしか取れませんでしたわ。そうですわよね、私は既に亡国の女。権力も後ろ盾も無い私に交渉の武器は皆無、出来る事などもうありませんものね。お役に立てなくて残念ですわ」
 理不尽だ。もう行かないと言ったのはルナフィーリアだ。我が侭にも似たその態度につい、アスティアの中にも苛立ちが芽生えてしまう。
「やはり殿下には御休みになられて頂きたい。そのような我執で交渉の場におられても迷惑と申し上げる」
「まあ……ッ」
 一触即発。
 気遣ったつもりが結局、火に油の結果になってしまった。
 緊張感の漂うビリビリした空気をぶつけ合う二人の間に、
「ん、なんかいい匂いがする」
 前触れの無い、どこまでもマイペースな呟きが水を撒いた。アスティアとルナフィーリアは同時に視線を向ける。緊張感を一気に破壊するのはやはり、この存在なのか。注目を浴びたセシルは悪怯れもせず、なー? とばかりにふんわり笑んで首を傾げてみせた。
「貴方は、……――」
 がっくりと呆れたルナフィーリアだったが、呟き通りに香ばしい香りが漂っていることに気付いたようだった。視線で発信源を探せば、そこには薄く焼いた生地にクリームやジャムを包んだ菓子と、搾りたての果汁を販売する露店があった。店頭ではその菓子を、たまらなく美味しそうに頬張っている少女までいる。
 途端に、ルナフィーリアの目が釘付けになるのをアスティアは見た。
「何か分からないけど美味しそうだねー。食べたいなー?」
 その様子にセシルが尋ねれば、彼女は控えめにだが頷いてしまったりする。
「買ってくるよ。アスは」
 さらりとついでのように聞かれてしまったので、アスティアは苦笑して、
「遠慮する」
「じゃあ適当に飲み物選んでくる。ルナフィーリア、ちょっと待っててー!」
 明るく言い、セシルは露店へと駆けて行った。
 残された二人は無言で見送る。そこに、先程まで落ち込み考え込んでいたセシルの姿は無い。無邪気なウキウキオーラが見えるようだ。
「どうにも、調子を狂わされてしまいますわ」
 たまらず、という風に呟かれたので、
「同意です」
 アスティアも意図なく呟いた。
 ここに来て初めて意見が一致したのかもしれない。ルナフィーリアはぱっとアスティアを見上げた。彼はその視線に気付き、一瞬目が合う。途端に彼女はすごい勢いで目を逸らした。
 やれやれ、と思う。下手に触れれば先程の続きになりかねない。容易く察せるのですっと視線を前に向け、セシルが戻って来るのを待つ事にした。
 その間、目に入ってくるのは西の要所、ルプガナの街並み。アスティアは腕を組み、一度思考を切り替える事にした。歩いて見た街を改めて思慮してみる。
 温暖な気候、爽やかな潮騒、そして賑やかなこの大通り。港には多国籍の船が並び、街には様々な人種が混在し、モノが飛び交っている。生活に直結する食材はもちろんの事、美しい布や糸、楽器、民芸品、果ては用途のよくわからないがらくたまで――目にした事の無い数々モノも含め、露店が軒を連ねている。
 ともすれば自身までも飲まれてしまいそうな程、魅力的な開放感に満ちている。ここは、今まで通って来た街の中で最も大きな都市だった。
 そしてこのような都市程、富裕層と貧困層の明暗がはっきり分かれているものだが、この街も例外ではない様子だった。メインを外れた路地に一歩入れば薄暗く、不穏な空気を放っているのが見て取れる。
 日差しが眩しくて目を細めた。その耳元をざわざわした風が吹き抜け、抜けるように晴れた青空へ向かう。雲一つないそこで海鳥が舞っていた。翼の向かう方向は、海。
 陽の光で輝く水面は、ローレシアの海を思い起こさせた。
 同じ海辺の街でも、気候や風土でここまで違うものなのかとアスティアは思う。ローレシアの港も漁師たちで活気はあるが、ほぼ軍港と言って差し支えは無い。故に整然としており、外交を中心に行っている訳ではないので事情が大分違う。
 ローレシアを今以上に発展させる。
 その途上で、明暗の無い平和を築く為にはどうすればいいのか。
(大きな課題だな)
 小さく息を抜き、ちらりと視線をルナフィーリアに向けてみた。彼女も何かを思案しているのか、海を見つめたまま静かだ。安堵して、しばらくそのまま街の様子を観察していると。
「……?」
 不意に、周囲の外観にそぐわない者が目の前を横切って行った。咄嗟に視線で追う。いくら賑わっており、多種多様な人種が行き交っている街とは言え、彼は明らかに浮いていた。
 全身白装束、加えて妙な仮面を付けていたからだ。
(仮面)
 引っかかりを覚えたアスティアが怪訝に記憶を辿る横で、ルナフィーリアが立った。目で追い、拳を胸に当てて握り締める。そして、
「間違いないわッ!」
 何かを確信したように鋭く言った。何事かと見遣ったが彼女は意にも返さず、街角に消え行く仮面の者を追って走り出す。あまりにも急な行動。アスティアは瞠目して呼び止めた。
「な……、殿下!」
 しかし止まる訳が無い。アスティアは店先で菓子の仕上がりを待ち、のんきに談笑しているセシルの腕を掴んだ。
「うぉあッ、アス何?」
「殿下を追うぞ!」
「はぁ?!」
「あれ……、ちょ、お客さん買わないのかーい?!」
 店員が叫んでいる。
「ごめんなさい非常事態みたいなのでキャンセルでーッ!」
 アスティアに引き摺られるように走りながら、セシルは悲痛な声で律儀に謝った。




◆    ◇    ◆    ◇


 ――白い仮面。
 額には赤い玉の宝飾。黒く覆われた目元は長方形、口元は小さめの長丸。
 シンプルで異様な、のっぺりとした白い仮面。

 間違いはない。先ほどの者はあの日、ムーンブルクの地下で呪いの術を放った悪魔神官と同型の格好をしていた。
 衝動的に駆け出したルナフィーリアは仮面の者を追い、大通りを抜け、街外れの路地に入り込んでいた。人で賑わう繁華街とは違い、どこか薄汚い景観に変わって行く。気に留めずいくつかの曲がり角を抜け必死で追いかけたが、土地勘の差なのか。行き止まりに迷い込んだルナフィーリアは拳を握り、衝動的に腿を叩いた。見失った。周囲を見渡してもそれらしき者は既にいない。もう少しで捕まえられたと言うのに!
 悔しさに奥歯を噛み締めていると。
「きゃああ!」
 突如、絹を引き裂くような悲鳴が路地裏に響き渡った。ルナフィーリアは弾かれたように顔を上げ、来た路地を引き返しながら声の主を捜す。
「!」
 そこで見た光景に瞠目した。
 廃屋の残骸が残る空き地。声の主は少女だ。年はルナフィーリアと同じ位か。ブラウンの巻き髪に大つばの白レース柄ハット。健康的にふくよかな身体に、質のよさそうなレースをあしらった桃色のワンピースを着ている。しかしその布地は泥に汚れており、見るも無残だった。
 しかし、ルナフィーリアが注目したのはそこではない。
「あれは――魔物! でも何故」
 それは、紫色の小柄な魔物――グレムリンだった。頭部には小さな角を持ち、人間に近い形の尖った耳や顔。その表情は悪戯っぽく幼い印象を受ける。背には黒い羽根、そして竜のようなシッポを持っていた。
 どこか小悪魔を連想させる外見の魔物は、その数二匹。
「お願い助けてッ!」
 少女は驚きに硬直していたルナフィーリアに気付き、恐怖に引きつりながらも叫んだ。声に反応してか、バサバサと飛びかかって行くグレムリン。逃げられず、少女は躓いて転倒する。ルナフィーリアはアッと声を上げ、とっさに杖を振り上げて駆けた。そして必死に杖を操り、少女に噛み付こうとしているグレムリンを払いのける。なんとか引き離した所で、
「どうしてこんな街中に魔物がいるの!」
 後ろで踞り、震えている少女へ怒鳴るように尋ねた。
「わからないの、急に襲いかかってきて……!」
 少女は怯えきった目をこちらに向けて、か細い声で答えを寄越す。キーキーとうめいて飛び回る二匹の魔物に注意を向けると、彼らはこちらを強く威嚇しており、今にも飛びかかってきそうだった。
(護りながら戦うなんて不利)
 ルナフィーリアは少女を背後に庇い、小さく毒づいた。こんな事になるのならば、単独行動を控えればよかったと思いかけて止める。その思考は、自分だけでは何も出来ないと証明しているようでは無いか。
「そんなはずは無い」
 これくらい、独りで切り抜けられなくてどうするのよ。
 ルナフィーリアは杖を強く握りしめ、冷や汗の伝う頬で薄く笑んだ。
「……来なさいよ。切り刻んであげるわ」
 彼女が殺気を放った瞬間、二匹のグレムリンがルナフィーリアに飛びかかって行く。その姿を見据えて彼女は呪文を唱える。
「風よ! 悪しき者どもを切り裂く輝きの刃となれ――バギッ!」
 呪文の影響で巻き起こる風、そして瞬く間に作り上げられた真空の刃は、今まさにこちらに飛びかかって来たグレムリンを襲い切り刻む。飛散する魔物たちの体液、ぼとりと撃墜した個体。やったのかと息を抜きかけたが、落ちたのは一体だけだった。薄れいく体液の煙幕の向こうから、その背後にいたもう一体が飛び出して来たのだ。
「きゃあーッ危ない!」
 少女の悲鳴が響くのと、一度で為留めたかった彼女は目を見開いたのは同時だった。もう、呪文を唱えられる間合いではなかった。顔を庇って咄嗟に上げた腕。グレムリンの爪はローブの袖をざっくりと切り裂き、その腕にも爪痕を残して行く。
「う……ッ」
 かすり傷だと言うのに痛みで盛り上がる脂汗、しかし今は傷跡を押さえてしゃがみ込む事など許されなかった。グレムリンは尚もルナフィーリアに向かって攻撃をしかけてくる。彼女にはもう、ギュッと目を閉じ、めちゃくちゃに杖を振り回す事しか思いつかなかった。
「わああ――ッ!」
 それはまさに幸運だった。その渾身の一撃が通じたのか、何かが砕けるような鈍い音と感触が腕に伝わった。おそるおそる目を開けると、そのグレムリンがどさりと足下に落ちて来た。頭蓋が割れたのか、ぴくりと痙攣しただけで動かなくなった。
「や……った、の……?」
 動くような気配が消えた頃、ルナフィーリアは震える。
「や……やれたの……!」
 二人がおらずとも! 独りで魔物を撃退できた。
 腕の傷も、手が痺れて痛いのも忘れてルナフィーリアは背後の少女を確認する。いる。こちらを見上げ、恐怖で引きつったままの顔で泣いている。小さなものはあるが、命に関わるような怪我はしていないようだった。安堵し、ルナフィーリアは少女の側にかがみ込み、安心させるように笑ってみせる。
「大丈夫、魔物はもう襲ってこないわ」
「あ……あああ、怖かった……!」
 少女は安堵感からか、全身を震わせて泣き崩れた。その肩を支えてやりながら、
「もう大丈夫よ」
 ルナフィーリアは力強く呟いた。
 護られる側から護る側になれたその自信が、彼女の胸を徐々に奮わせる。
「ルナフィーリア!」
「殿下」
 その時、二つの声が同時にこちらを呼んだ。顔を見ずとも誰か解る。ルナフィーリアは負傷した腕を見えない位置に隠し、慌ててベホイミをかけながら、半眼で二人の王子を見上げる。
「遅かったのね」
 セシルはこの惨状――周囲に魔物が散らかり、女二人がしゃがみ込んでいる姿――に混乱したような表情を浮かべ、周囲を見渡している。アスティアは眉を潜めつつも、現場を見極める目は流石に冷静だった。そんな彼らの目が魔物に向いているうちに腕の治療を終えられ、ルナフィーリアは密かにほっとする。
「如何なされたのですか」
 こちらを向いたアスティアに尋ねられたので、彼女は冷静を装って答えてみせる。
「この子がそいつらに襲われていたのよ」
「どうして、こんな街中なのに」
 セシルの呟きは最もだったので、大分泣き止んでいる少女に声をかけてみる。
「ねえ、貴女。何故こんな場所に」
「私の部屋に、お爺様から置き手紙があったの。ここに一人で来いって。不思議に思ったけれど、言う通りに来てみたら突然、あの魔物が襲いかかってきて――ッ」
 話しながら先程の恐怖をぶり返したのか、少女はギュッと目を閉じて黙ってしまう。ルナフィーリアはその背を撫でてやりながら、口元に指を当てた。
「殿下。これは、先程の者と何か関係が」
「……解らない。途中で見失ってしまったもの。けれど、可能性が無いとは言えないわ」
 アスティアに問われ、ルナフィーリアは押し殺した声で低く呻く。
「ルナフィーリア。君は一体、誰を追っていたの」
 一連を見ていなかったセシルが問うてくる。ルナフィーリアは眉間を寄せ、
「ムーンブルクを襲った連中と、同じ仮面を付けていたのよ」
 はっきり答えると、セシルは息を飲んだようだった。
 会話が途切れたその時。
「あの……是非、このお礼をさせて頂けますか」
 だいぶ落ち着いたのか、少女がおずおずと申し出た。
「結構よ。通りがかりにたまたま、遭遇しただけですもの」
 そんなつもりはなかったので断ろうとしたのだが、
「そんな訳には参りません。せめて、怪我の手当と着替えだけでも!」
「怪我って……ルナフィーリア、そのローブ」
 その指摘でざっくりと切られている袖に気付いてしまったセシル。余計な事を、と、ルナフィーリアは内心毒づいた。気付かれたくなかったのに。
「傷は無いわよ。少し裂けたくらいで大げさに騒がないで頂ける」
 傷の消えた腕を示し、不快を露にしてみせる。それでも少女は引き下がらなかった。
「で……でも、お願いします。命を助けて頂いた方にお礼もせずだなんて、お爺様に叱られます!」
 その後もこんこんと申し出を続ける少女。熱意に押され、ルナフィーリアは最終的に折れた。そして少女に連れられて向かった場所は、思いも寄らない場所だった。




◆    ◇    ◆    ◇


 少女は名をフェデリカ、と名乗った。そして彼女に連れられて来た場所は、見上げる程立派な豪邸だった。身なりから裕福な家庭の娘であろうと想定できてはいたが、市井にてこの門構えの絢爛さ。縁者は、よほど腕のある豪商なのだろうと推測できた。
 ルナフィーリアは半ば強引に着替えさせられた後、応接に通された。進められて腰をかけたソファはしっとりと重みを吸収する、うっとりするような心地のものだった。思わず本気でくつろいでしまいそうになるのを堪えつつ、彼女は正面でニコニコしているフェデリカを見る。彼女も勿論着替えを済ませており、今は淡い青の爽やかなドレスを身につけている。
「なんか、いいのかな。僕たちまで」
 隣に腰掛けたセシルが苦笑まじりに呟いた。多少の居心地悪さも含んでいたそれにフェデリカはにこりと笑み、大きく頷いて見せる。
「恩人のお連れ様だもの。私には丁重にお招きする義務があります」
 金持ち特有の見栄なのだろうか。しかし悪い気はしないので、ルナフィーリアは薄く笑むにとどめた。セシルは困ったように愛想笑いを浮かべる。向こうに腰掛けているアスティアの様子は伺い知れないが、いつもどおり涼しい顔でもしているのだろう。
 そのまま当たり障りのない会話をしていると。
「フェデリカ様、大旦那様がお帰りになられました」
 ドアが開き、メイドが告げた。その背後から現れた人物を、フェデリカは立ち上がって迎える。
「お帰りなさい、お爺様」
「おお、フェデリカ!」
 その光景に、三者三様で驚いた。なぜならその人物が、港の事務所にて出会ったルキーノだったからだ。彼はこちらを見向きもせずまっすぐにフェデリカへ向かい、その頬を両手で包んで、
「話は聞いたぞ、無事じゃったか。何処も怪我はしとらんか」
「はい、この通り」
「お前が街で魔物に襲われたと聞いて、いても立ってもおられず帰って来てしまったわ。おお、よくぞ無事で」
「この方が私を助けて下さったのよ」
「そうかそうか。なんと礼を申し上げたらいいのか、――!」
 フェデリカに促され、ルキーノはこちらに視線を向けてハッとしたようだった。彼も驚いたのか、すぐに孫娘へ視線を戻して問い直す。
「フェデリカ。本当にこの者たちが」
「そうよ?」
 きょとんとした顔のフェデリカ。彼女は続けて、
「そちらのルナフィーリアさんが私を助けてくれたの。凄かったのよ! 風みたいな魔法でいっきに魔物を倒してくれたの! ね!」
 同意を求めてくる彼女に、ルナフィーリアは頷く。
「ええ。私の到着が後一歩遅ければ、彼女は今頃ここにはいなかったでしょうね」
 はっきり言うルナフィーリアに、ルキーノは困惑したようだった。その様子にフェデリカは疑問符を顔に浮かべ、ルキーノに問う。
「どうなさったのお爺様、この方達を知っているの?」
「この者達は今日、港の事務所に来たのじゃ」
「まあ、なんて偶然」
「そう、その偶然なのじゃ。まさか、とは思うが、そなたら」
 ルキーノは困惑を疑惑に変える。その変化にルナフィーリアはサッと顔色を変えた。
「まさか!」
 侮辱に喉の奥が熱くなる。あまりの言葉にその先を詰まらせると、セシルがその先を継いでくれた。彼は不快を露にした顔で語気を強める。
「幾ら困っていたとはいえ、僕たちは卑怯な手なんて使わないッ」
「そのような疑惑を持たれるとは心外だ」
 同調するように、アスティアも静かな抗議をする。空気がぴりりとした緊張感をまとう。それにオロオロするフェデリカ。
「お……お爺様は何かを疑っているの? 本当に偶然だったのよ? ルナフィーリアさんがいなかったら私、本当に魔物に食べられてしまっていたんだから!」
 泣き出しかねない剣幕で孫娘にも責められ、ルキーノは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「――……そう、じゃな。失礼した。どうあれ、そなたらはワシの命よりも大事な孫娘を助けてくれた事には違いないのじゃ。すまぬ。なんと礼を言ったら」
「言葉の謝礼は結構。行動で示して頂ける」
 ルナフィーリアはルキーノの言葉を途中で遮り、高圧的な半眼になる。ルキーノは何かを堪えるように貯めた後、
「……もちろんだ。特例で、アレフガルド行きの船を出させよう」
「そう。解って下さって嬉しいですわ」
 ルナフィーリアは薄く笑み、わざとらしく優雅な礼を取ってみせた。落胆を見せるルキーノの傍らで、フェデリカはルナフィーリアの仕草に見とれているようだった。しばらくポーッと頬を染めていたがハッと我に返り、ルキーノを見上げる。
「ところでお爺様、あの手紙は何だったの」
「手紙?」
「私をあの場所に呼び出した手紙よ。これ」
 問いながらフェデリカは折り畳まれたメモを差し出す。怪訝な顔で受け取ったルキーノは、その中を見てますます眉をひそめた。
「……知らんぞ、こんなものは」
 呟かれたその言葉に、フェデリカは不安げに胸元でぎゅっと手を握る。
「では、一体誰が」
「ルキーノ殿。何か心当たりは」
 アスティアが尋ねるとルキーノは少々考えた後、何かに思い至ったのか顔を上げる。
「もしかしたら、あいつらかもしれんな」
「あいつら?」
 セシルが反芻するとルキーノは頷き、メモをくしゃりと握りつぶす。
「ここの所、妙な出で立ちの輩が新興宗教の勧誘にくるのじゃよ」
「妙な出で立ち、と言うのは」
「白装束に奇妙な仮面を着けた連中じゃ。むろん、我らが神は唯一神ルビス様ゆえ、断り続けておるのだが……まさか、フェデリカを狙うとは思いもよらなかったわ」
 ルナフィーリアは自身の顔が強張るのが分かった。あの一件に、やはりあの者が関わっているのだとすれば、フェデリカが街の中で魔物に襲われたことにも納得が行く。
「調べてみる必要がありそうだな」
 難しい顔をしているアスティアが告げる。
「そうだね」
 セシルは静かに同意を寄せる。これにはルナフィーリアも素直に同意だった。強く頷いて、両側に下ろした拳に力を込める。
 意見がまとまったところで、フェデリカが空気を換えるようにポン、と手を打った。
「そうだわ! 皆さんよかったら、船が整うまで家に泊まって行きません? ね、お爺様」
 これには恐縮したのか、アスティアが口を挟んでくる。
「いや、船を出して頂けるだけで十分。そこまでしてもらう道理は」
「構わん。むしろそうしてくれ」
「ルキーノ殿」
「そなたらは愛しい孫娘の恩人だというのに疑いをかけてしまった。これ位させて頂かなければ、家の名に傷がつく」
 その返答にルナフィーリアは腕を組み、薄く笑む。
「当然ですわね」
「ルナフィーリア」
 流石にセシルが態度をたしなめて来た。ルナフィーリアは手先を払ってあしらう。そしてアスティアを見た。
「構わないでしょう? 向こうが良いと言っているのだから。それに、ここにいた方が好都合ではないかしら。例の連中が、再びフェデリカを狙うかもしれないのよ」
 アスティアはこちらの視線に顔色こそ変えないが、あまりいい気はしていないように見受けられた。小さく息を抜いた後、
「了解した」
 そう、了承を示してきた。
「では、お世話になりますわね」
「もちろんです! 早速、お部屋を用意しなきゃ」
 フェデリカはメイドにてきぱきと指示を与えながら、ほっとした様にルナフィーリアへ笑いかけて来た。それに笑み返してやりながら、彼女はとても良い気分を味わっていた。アスティアやセシルが出来なかった船の交渉を、多少の運はあれど見事に勝ち取る事が出来たのだから。
 久々にとても、いい気分だった。




◆    ◇    ◆    ◇


 緩く流れる午後。強い日差しが次第にやわらかく傾いて、影を少しずつ長く変えていく。美しく整備されている庭には、暖かい地方原産の珍しい花が咲き乱れていた。
 白いテーブルと二脚の椅子。どちらも繊細な彫刻の施された品の良いものだった。その椅子につき、ルナフィーリアは遠い過去の日常を思い起こすような錯覚に酔っていた。
「どうです? ラダトーム地方原産の紅茶なんですけれど」
「ええ、好い香りね」
 注がれた紅茶のカップから立ち上る優しい芳香。素直に感想を述べると、フェデリカは嬉しそうに笑う。
「このお茶、私のお気に入りなんです。あとそうだわ。ねえ?」
「はい、お嬢様」
「あれはもう無かったかしら。パパのお土産だった、ベラヌールの砂糖菓子」
「ございますよ。今、お持ち致します」
「お願いね」
 フェデリカの要望に答えるメイドの背中を横目で追いながら、ルナフィーリアは思う。
(以前の私と同じだわ。護られて、何不自由無く暮らす以前の私の姿)
 箱入りで大事にされている彼女は、少し前の自分とだぶって見えて少々不快だったが、今は気分がいいのでさほど気にはならなかった。
 ルナフィーリアはフェデリカに誘われ、中庭のテラスにて茶を振舞われていた。ちなみにアスティアとセシルは今、利用していた宿から荷物を引き上げに行っている。ルナフィーリアも同行するはずだったが、フェデリカに引き止められてしまった。彼女には同世代の気安さからなのか、すっかり懐かれてしまったようだった。
「私、貴女みたいに綺麗で強い女性って憧れだわ。助けてくれた時、本当に素敵だったもの」
 耳に心地の良い言葉を並べられる。世辞ではない賛辞に、ルナフィーリアはまんざらでもない。綻びそうになる口元を隠すように華奢なカップを持ち上げ、そっと睫を伏せる。
 こんな風に優雅に茶を楽しむ感覚など、とうに忘れていた。
「ねえ……聞いても、いいですか?」
「なにかしら」
「ルナフィーリアさんは何処からいらしたの? 何故旅を? どうしてアレフガルドに?」
 フェデリカの目は、質問欲にきらきらと輝いているのが見て取れた。矢継ぎ早に投げかけられ、ルナフィーリアは少しだけ息を抜く。
「ムーンブルク地方からよ。人を、捜しているの。アレフガルドに行けば、その足取りがつかめるかもしれないので」
「まあ……。こんな時勢に旅なんて大変なのでしょうね。でも、ムーンブルクからって……ドラゴンの角の橋が壊れているって聞いてたけど、どうやって渡って来たんですか?」
「ふふ。それは秘密よ」
 答えたところでふと、ルナフィーリアは視線を一点に止めて口を噤んだ。庭を囲うように植えられている垣根の切れ目に、丁度玄関の門が見える。その視線の方向にフェデリカも気づいたようだった。振り向きながら、
「お客さんかしら、……!」
 彼女はそこまで口に出し、口を噤んだ。
 ルナフィーリアは椅子を立った。来訪者。それは、思いもがけない――そして、内心遭遇を切望していた連中だった。こちらの姿に気付いたのか、向こうもこちらを見つけて不意に立ち止まる。
 それは例の白装束、そしてもう一人。先述の者と基本は同じだが、朱色のマントを羽織っている。明らかに異様な二人組だった。
「……お爺様が言っていたのはあの人たちよ」
 少し怯えたように呟き、フェデリカはルナフィーリアのそばに寄って来た。
 白装束が、朱色のマントの者に何かを囁きかけると男は頷いて、思いも寄らない事をルナフィーリアにぶつけて来た。
「ほう。貴女ですか、私たちの計画を潰して下さったのは」
 藪から棒に投げかけられた言葉に、ルナフィーリアは怪訝に柳眉を寄せる。その仕草に白装束の男が色めき立つのがわかった。
「アンタ、俺の大事なパートナーをよくもこんな目に遭わせてくれたな!」
 ずかずかと敷地に入り込み、仮面越しでも分かる程鼻息荒くまくし立てられた言葉の後で、ルナフィーリアは目を疑った。男が合図をすると手負いのグレムリンが一体、側に現れたからである。
「もう一体は完全に死んでた。お前に殺されたんだ!」
 彼は弱り果てているグレムリンを労るように撫でながら、こちらを睨んで来た。その異様な光景にルナフィーリアは驚愕する。
「魔物が人に懐くなんて。……あの時、そいつらに彼女を襲わせたのはやはりお前達なの!」
 朱色のマントの男は、仮面越しに低く笑う。
「その少女は街一番の権力者の孫娘、ですから……ねえ、フェデリカさん」
 名を呼ばれ、フェデリカはルナフィーリアのローブの裾をぎゅっと握る。
「どういうつもり。お前たちは何者」
 低く問い、ルナフィーリアはその答えを待った。朱色のマントの男は間を置き、朗々と名乗りを上げてきた。
「私は祈祷師。偉大なる大神官、ハーゴン様の元で邪神を崇拝する邪神教徒」
 心臓が一際、大きく脈打つ。
 ルナフィーリアは反芻する。
「大神官、ハーゴン」
 噛み締めるように。
 ルナフィーリアの畏怖とも取れるその声に、祈祷師は低く笑う。
「我ら邪神教団は今、一人でも多くの信者を必要としている。故に、その少女の一族に入信して頂くのが好ましい。しかし、彼女のお爺様は頑固な方でしてね。幾ら教えを説いても、彼らはこの光栄な誘いを断るばかりでした。仕方が無いので、フェデリカさんに協力して頂こうと思っていたのですが――ね」
「では、脅しに使うために彼女を襲わせたと言うの!」
「少々手荒ですが、仕方の無い事でしょう」
 祈祷師は当然、とばかりに上から肯定を示してくる。許される事ではないと思った。
 ルナフィーリアは凛とした声を張り上げる。
「この世界に生きる者として与えられる権限には『信仰の自由』がある。それを脅しで強要しようなどと、聖職者の風上にも置けぬ愚行。恥を知りなさい!」
 しかし祈祷師は、嘆かわしいとばかりに肩を竦めるばかりだった。
「目先の権利を主張し、物事の本質を見抜けぬ事こそ愚行だ。邪神教団に入信さえすれば、永劫の平安が約束される。何があっても邪神様が護って下さるというのに。
 聖霊神ルビスが勇者ロトと共に姿を消し、数百年。女神の時代は終わった。これからは大神官ハーゴン様の元、邪神の時代が訪れる。邪神は新世界の神となり、この錆び付いた世界を変えて下さるのだ……ッ!」
 気分が高揚して来たのか、饒舌に捲し立てられる。ルナフィーリアは立ち尽くしたまま、そろそろと自分の手を見つめた。ひどく汗をかいている。動機は収まらない。
 大神官ハーゴン。
 その名を耳にした時から、心臓がドクドクと脈を打っている。痛い程。
 全身の血流までもが激情に反応する。
「祈祷師様の言う通りだ。アンタらだって、魔物に襲われて滅びたくはないだろ。あのムーンブルクみたいにさ」
 勝ち誇ったような声で祈祷師の言葉を継ぎながら、白装束がルナフィーリアの肩に触れた。ルナフィーリアは無表情のままその手に触れる。そして。
「うおぁッ! あああッ?!」
 白装束が悲鳴とともに鮮血をまき散らし、のけぞった。彼のそばにいたグレムリンは驚いたのか、高く悲鳴を上げて飛び上がる。唱えられた呪文はバギ――真空の刃が、白装束の身を刻む。飛び散った鮮血に遅れて、フェデリカの悲鳴が重なる。
「貴女は」
 祈祷師はそこで絶句する。
 今にも倒れそうなフェデリカ。
 ルナフィーリアは地面でのたうち回っている白装束を一瞥する訳でもなく、
「汚い手で私に触るからいけないのよ」
 低く告げながら、フードを外して髪を解いた。物陰から吹き込む潮風に、ハニーブロンドが緩やかに揺れる。その凛とした立ち姿にただならぬ物を感じたのか、空気は一層緊張する。
「どうしても我らに歯向かうか」
「同調する余地など無いわ、外道」
「……貴女は何者だ? 廃れ行くはずの風の呪文を操れるのは今、ムーンブルク王家に連なる者のみなはず。――まさか」
 祈祷師はまじまじとルナフィーリアを見る。ルナフィーリアは仮面の向こうにある目を見据え、無言で威圧する。
「予測が事実ならば大事だ。貴女にはここで消えてもらおう!」
 場が一気に臨戦態勢に入る。
「どうした、何事だ!」
 しかしその時、音を聞きつけて警備の男数名を引き連れたルキーノが駆け込んできた。そして現状を見るなり顔色を変えて、
「お前達は――! 騒ぎを起こしてまで一体、何の真似だ!」
「ルキーノさん。貴方が頑固だからいけないのですよ」
「なんだと!」
「しかしこれでは分が悪い。一度撤退させていただきます」
 祈祷師は憎憎しげに呻いた後、胸元から何かを取り出した。
「それは、キメラの翼――!」
 ルナフィーリアが声を上げると共に、祈祷師が仮面の下で低く笑ったのが分かった。彼は手にしていた翼を高く放り上げる。上空に舞い上がった翼がふわりと光を放った、次の瞬間だった。
「!」
 あろう事か、祈祷師の姿が忽然と消えてしまったのである。
「消えた」
 誰かがごくりと唾を飲む音が聞こえた。キメラの翼というのは古来より伝わりしルーラ(移動呪文)という、一度でも行った事のある場所へなら、その土地を思い描くだけで飛べる瞬間移動のような呪文を封じたマジックアイテムとして流用されていたものだった。
 便利ではあるが使用法に難しさと危険性を孕んでいるため、今では使用を禁止とされているものだった。
 そんなアイテムを使用され、逃がしてしまった事実に歯噛みしていた時だった。
「キャアアーッ!」
 突如、フェデリカの悲鳴が上がった。祈祷師にばかり視線を取られていたルナフィーリアはその悲鳴に顔を向け、目を見開いた。何故なら彼女が、手負いだったあのグレムリンに襲われていたからだ。
「フェデリカ!」
「お爺様ッ!」
 フェデリカが悲鳴を上げると同時に、誰よりも早くルキーノが走りその身を呈して庇った。グレムリンの攻撃はルキーノの背を抉り、周囲に鮮血を散らす。
「お爺様、お爺様ッ! いやぁっ!」
 血に動揺したのか半狂乱で泣き叫ぶフェデリカを抱きしめ、ルキーノはそれでもひるむ事無く魔物を見据えてすごむ。
「こんなかすり傷など! 魔物どもめ……、孫娘には指一本触れさせないぞッ」
 身体が突然、金縛りにあったかのように硬直する。命を掛けてでも愛しい者を護ろうとする覚悟の気迫。咄嗟に思い出したのは、重ねてしまったのは父王の、最期の姿。
「あ――……」
 その後、警備の者達がグレムリンを切り払うのを目で追いながら、ルナフィーリアは全く動けなった。
 ――その隙を見たのか。
「殺してやる!」
 物騒な声が上がり、ルナフィーリアは呪縛から解放されたかのように振り向く。そこにはいつの間にか起き上がっていた白装束の男が、何か輝くモノを手に突進して来るのが見えた。危ない、そう思った時にはもう、何も出来なかった。その手に握られていた短剣の切っ先が、自分の腹部を狙っているにもかかわらず。
「!」
 痛みに備えて目を閉じる事位しか思いつかなかった。
 やがて襲い掛かる衝撃と誰かの重み、打撃音。ヒュッと吐き出された息の音。次いで、地面に何かを叩き落としたような金属音。
 痛みは無かった。そろそろ目を開けると、視界に入ったのは鮮やかな青色。
「あ……」
「御無事ですか」
 ルナフィーリアは息をのんだ。
 そこにいたのは紛れも無く、アスティア。でもなぜ。
 数歩後退ると、その全容が分かってきた。まず、アスティアの背中。視線を下げれば、足元には散らばった荷物と、完全に意識を失い伸びている様子の白装束の男がいる。その手元には赤く濡れた短剣が落ちていた。
「血……?」
 しかし自分にも、倒れている男にも血の出るような要素は見当たらない。疑問が恐ろしい確信に変わったのは、アスティアが小さく出した吐息に気付いた時だった。
「貴方」
 指摘するとアスティアは半身だけ振り返って、しかし表情は変えもせず、
「切っ先が少し入った程度です。殿下に御怪我は」
「わ、私には何も――でも貴方が」
「殿下が御無事であれば、私はそれで」
 返答すると、彼は安堵したように少しだけ表情を緩めた。
 言葉が喉元にこみ上げる。たくさんこみ上げてくるのに、何一つ詰まって出てこない。そうこうしているうちに、セシルがこちらに駆けて来るのが見えた。
「アス、大丈夫?!」
「ああ、殿下は無事だ。しかしルキーノ殿が負傷しているようだ。手当てを」
「わかった」
 セシルはそれに頷いて、抱き合ったまま涙している二人の所に急いだ。その行動に、ルナフィーリアははじかれた様に声を上げる。
「貴方、貴方だって怪我を、どうして先に治療を頼まないの!」
「市井の者を優先するのは当然です。この程度なら急がずとも、大事無い」
「――」
 ルナフィーリアは杖にすがり付くように、へなへなとその場に腰を落とした。
 結局、大事な局面では庇われるばかりで何も出来ない。強がったとしても結局、自分独りで出来る事はやはり無いのだと痛感する。
 喉の奥がひりひりと熱い。悟ってしまった。
 ハーゴンを倒して敵を討ちたいと思った。でも、独りでは何も出来ない事を。
 だったらもう生きていても仕方が無い、このままもう死んでしまいたかった。
 でも死ねないとも思った。父王や国の、護ってくれた全ての人の意思を無駄にすると思ったから。
 だから国を再建しなければと思った。
 でもそれも独りでは無理だとも解りきっている。
 だったらどうすればいいのか。独りで出来る事は他に、まだあるのだろうか。

 ふと見た、垣根の向こうの路地。一匹の野良犬が、ゴミを漁っている姿があった。
 犬になってムーンペタの街を徘徊していた夜が脳裏を過る。誰のぬくもりも得られず、お腹を空かせて鼻を鳴らした路地の隅。足にひんやりと伝わる石畳の堅い感触。
 あの時は、明日の食べ物の事ばかり考えていれば良かった。
 あの時、あのまま誰にも見つからず、野垂れ死ねばよかったのかもしれない。そうすれば、こんな絶望を知る必要など無かった。
 むざむざと生き残ってしまったこの身が今は、ただただ憎い。
 ――いっそもう、己で這い上がる事すら出来ない程に堕ちてしまえたらいいのに。

 無力さに考えのすべてが灰になるのを感じながら、それでも彼女は。
 出ない答えを求めて、自問自答を重ねる。




◆    ◇    ◆    ◇


 夜半。ルキーノの邸宅にて、それぞれに与えられた個室の客間。
 就寝前の準備をすべて済ませていたアスティアは、整った清潔な寝具の上で大きく息を抜いた。湯まで使わせてもらった為、体は清しい。そのような状態で久々に手足を広げ、独りで眠る事が出来るとあって気が楽だった。
 伸びをすると、昼に負傷した腹部の傷が僅かに引きつる。セシルに処置はしてもらったが、事前にルキーノの治療を優先させた為、完全に治す前に魔力が尽きてしまい完治まではいかなった。それでも流血だけは止めていたので、あとは自然治癒に任せるとそれ以上の処置は辞退した。
 衣服をめくり患部を確認すると、わずかばかりの切り傷が残っている。
 あの時、咄嗟に間に合ってよかったと改めて思う。もう少し遅ければ今、この傷はルナフィーリアに刻まれていたのかもしれない。
 そこに思い至り、なんともいえない気分で傷に手を当てていると――ふいに、ドアの方に気配を感じて顔を上げた。それとほぼ同時か、控えめなノックの音が部屋に響いた。
「アスティア様」
 次いで聞こえてきたのはルナフィーリアの声だ。アスティアはその来訪に若干の戸惑いを覚える。彼女が単体で、自分を訪ねて来る事などあるのか。
 考えあぐねながらもドアを開けると、そこにはやはりルナフィーリアが立っていた。借り物なのか、淡い桃色の薄い夜着一枚着ただけの姿で、髪の毛は湯上りなのかしっとりと濡れている。
 その、言い方を選べば無防備な姿に少しだけ面食らいながらも、勤めて冷静に尋ねた。
「どうされた」
「貴方に少し、お話が。これからの事で」
「では、セシルも呼んで」
「いいえ、二人で話したいのです」
 何の意図がある。内心警戒はするが、顔には出さない。
「では、中へ」
 半身を内側に向けて招き入れると、彼女はそれに従って中に入った。ドアを閉めた後に手近なソファを進めたが、彼女は座ろうとしない。喋ろうともしない。
 二人きりで向きあったまま、重い空気が流れ出す。
「殿下?」
 何も話さない彼女に業を煮やして言葉を促すと、ルナフィーリアはようやくその口を開いた。
「アスティア様。昼の傷を、診せて頂けますか」
「傷」
 反芻して、アスティアは身構えていた分、肩透かしを食らったような気分になった。若干表情を崩し、首を小さく横に振る。
「それでしたら、セシルに応急処置を受けました」
「ですが」
「殿下の御手を煩わせる程では無かった。自然治癒に任せれば消える傷です」
「……」
 そう話すと、彼女は黙った。こちらからの言葉もそれ以上に無く、沈黙が落ちる。さてどう繋ぐかと考えをめぐらせた視界の先で、しかしルナフィーリアが予想外の行動に出た。
「殿下」
 ルナフィーリアは無言でアスティアの懐に入り込み、シャツの裾を捲り上げた。大胆とも取れるその行動に鋭く息を呑む。彼女は腹の傷を見つけたようだった。そして何を思うのか、その華奢な白い指を傷に這わせてくる。
「――ッ」
 それは冷たい指先だった。背筋に走った感覚に、アスティアは思わず身を引く。
「……私が、すぐにベホイミをするべきでしたのに」
 傷から離された指をゆっくりと下ろしながら、ルナフィーリアは独り言のように小さく呟く。普段とは違う様子の彼女に、アスティアはますます戸惑う。
「私は、いるだけで貴方とセシルの邪魔をしているのだわ。……そうでしょう?」
「それは」
「仰らなくても分かっております。……私に出来ることといったらもう、――子を産んで、血を増やすこと位しかないのかもしれません。ムーンブルク復興の為、王族最後の、女として」
 伏し目で話すルナフィーリアの表情は、まるで白だった。自分に話しかけているはずなのに、心無い言葉に聞こえているのは錯覚だろうか。
「何を、考えておられる」
「やっと答えが出たの。私に出来ることといったらもう、これしかないと。……だから私、貴方の――ローレシアの正当後継者である貴方の血が欲しいの」
 それはつまり。
 アスティアは思わず、ルナフィーリアを咎めるように見た。
「正気ですか」
「勿論」
 アスティアには、ルナフィーリアの気持ちが分からない訳ではなかった。ローレシアの血を、ひいてはロトの血を絶やしてはならないと教育されてきたのはアスティアもまた、同じだったからだ。しかしそれを念頭においても、今目の前で自分の血が欲しいと強請る彼女の表情と行動は正気の沙汰とは思えなかった。
「私には出来かねます」
 苦い表情で断ると、ルナフィーリアは少しだけ沈黙を置く。しかし表情は相変わらずのままで、
「そう……では他を当たるしかないようですわね。どうせなら同じロトの血を引く貴方かセシルが一番相応しいのですけれど。――この際、市井の血を入れるのもやむを得ない事なのでしょう。話はそれだけです。では」
 そう早口で告げた後、踵を返した。
「なっ、御待ち下さい殿下!」
 食い下がりもせず引き下がる彼女。そして告げられた言葉に胸が切迫する。アスティアは咄嗟に、退出しようとするルナフィーリアの手首を掴んだ。ぎょっとする程細い。片手でも指が余る程。今にも折れてしまいそうなその手首は、熱い。
 引き止められたルナフィーリアはそこでやっと、印象の無い表情を崩してこちらを見上げてきた。
「何をしようともう、私の勝手でしょう」
「そう言う訳には参らない。貴女の身に何かあっては困る」
「何故? 何に困ると言うの? 別に私一人いなくなろうともう、何も変わりはしないでしょう。どうせもう、ムーンブルクと言う国は滅びてしまったのよ。何の後ろ盾も無いただの役立たずなこの私に今更、どんな価値があると言うの?」
「どうか、御気を確かに。旅の同行を決めた以上、貴女を護る事は私の義務」
「義務」
 ルナフィーリアは反芻し、不意に笑った。クスクスと声を立ててみせた後、彼女はもう耐えられないとばかりに高笑いを爆発させる。彼女はひとしきり笑いながら手を伸ばし、アスティアの胸ぐらを掴んで顔を引き合わせた。
「そうやって女扱いして護ったりするから私は何も救えなかった、大事なものを、両親も、国までも失ってしまったのよ」
 間近に迫るそのポピーレッドは徐々に笑みを消し、激情に見開かれていく。
「貴方は贅沢だわ……。男で力もある、継承権もある、帰る場所もある! ロトの名を継ぐ王族として完璧なのが癪に触って仕方がないのよ。私は、私が欲しかったものを全部持っている貴方が大嫌いなの……ッ!」
 完全否定。
 アスティアの喉元が、熱を帯びる。間近に迫った顔、ゆるい波のかかった美しい髪が数本、アスティアの服に絡み付いていた。ギラギラしたその瞳に見上げられながら、アスティアは一度、目を閉じた。そして、
「貴女が負った痛みは解らない。だが……心外だ――ッ」
 ルナフィーリアと向き合い、彼女に対して初めて本気でむき出しにした素の感情だったのかもしれない。アスティアが見せたその眼に、彼女は高揚したように歪んだ笑みを浮かべ、
「気に障ったのなら私なんて力尽くで黙らせてしまえばいいわ。御得意でしょう?」
 言い捨て、彼女は自分の衣服の両袖を掴み、肩口を引き下げた。露になる上半身の白さ。ルナフィーリアは見下すような態度で、
「それとも出来ないの? 女一人屈服させられないなんて、ローレシアの王子様は随分と情けないのね」
 安い挑発だった。普段ならば絶対に乗る事は無い。
 熱を帯びはじめる身体に比例し、思考も過熱し堕ちて行く。彼女にここまで煽られて尚、大人しくいられる程、アスティアは大人ではなかった。だったら望み通りにしてやろうかと、アスティアは彼女を引き込んで手荒にソファに押し付ける。困惑と激情がないまぜになった彼女の眼。僅かな怯えを感じ取った呼吸の合間、距離。
「――」
 ルナフィーリアは必死だった。
 張りつめた虚勢。彼女のその目はまるで、追いつめられた小さな生き物――そう、犬であった時に見せたあの、怯えた瞳と一緒だと思った。
 それに気付いた時、アスティアは動きを止めた。沸騰しかけていた頭に、一気に冷や水を浴びせられたような気分だった。
 急に温度の変わった目に、ルナフィーリアは戸惑ったようだった。
「――何故」
 声が震えている。
「何故、何もしないのよ」
「意味が無い」
 目を見てはっきり伝え、アスティアは彼女の衣服の乱れを正して身を起こした。彼女はないがしろにされたと感じたのか、わなわなと震え出す。そんな彼女がいじらしいとまで思った。抱きしめたい衝動をギリギリまで堪え、代わりにそっと、紅潮している頬へ指を滑らせた。一度触れてみたいと思っていたその頬は柔らかく、熱い。
 それが思いがけない行動だったのか、ルナフィーリアはびくりと動きを止めた。アスティアは構わず彼女の輪郭をなぞった後、
「もう、いい」
「え……?」
 アスティアは出来る限り優しく、自分の言葉で囁いた。
「無理に強く見せなくていい」
 沈黙。そして、
「あ……なたは――ッ」
 ルナフィーリアの顔が歪んだ。
 次の瞬間、手を払われていた。
「貴方は! 貴方は私を逆撫でさせる天才だわ!」
 ついでに平手も受けた。彼女はヒステリックに叫ぶ。
「なぜよ! 優しさなんて見せないで――ッ、私なんて所詮女よ! 王族の女なんて政治の手駒、子供を産むだけの、性欲処理の道具でしか無いでしょう?! 私が気に入らないのなら力づくで抱き伏せて犯して壊して黙らせれば良いじゃない! それが出来ないなら今すぐ私を殺してッ! 簡単でしょう。剣で、ここを突けば終わりだものッ!」
 ルナフィーリアは自分の胸を押さえ、絞り出すように呻き続ける。
「お願い……帰して、私をムーンブルクに帰して! あの日のムーンブルク……ッ、今すぐ早く、お願い今すぐ帰して――ッ! もう嫌……ッ、何故私だけ生きてるの? 私を――独りでは何もできない最低な私なんか殺してしまってよ……ッ!」
「……殿下」
 顔を抑え、俯いてそれ以上、何も答えなくなったルナフィーリア。
 時が硬直する。
 その時。緊張を解くようにドアがノックされた。
「アス? 何騒いでるの」
「セシルか。鍵は開いている」
 アスティアは、彼の登場に少しだけ安堵する。声だけで入出を促すとやがてドアが開き、セシルが顔を出した。そして様子を伺い、混乱したように目を丸くする。
「ルナフィーリア――? アス、この状況は何」
 ソファで顔を覆ったまま座り込んでいるルナフィーリアと、その前で立ち膝のアスティア。しかし、アスティアには答えられなかった。言葉を選んだが、結局説明にならないまま無言で過ぎる。
「ね、ルナフィーリア」
 疑問符を浮かべたままのセシルがルナフィーリアの側に跪き、彼女にも問いかけた時だった。ルナフィーリアは顔を覆っていた手をはずして、セシルを見上げる。そして。
「セシル……。私死にたい――」
 聞き取りにくいほど小さな声で、彼女は言った。
「え……?」
「もう死んじゃいたいの!」
 セシルが聞き返すと、ルナフィーリアは拳を振り上げるように力いっぱい叫んだ。セシルは見る見るうちに目を見開いて、そして。
「な――何、ばかな事言ってるんだよ……ッ、簡単に死を口にするなッ!」
 めったに聞く事の無い、セシルの怒号が響いた。ルナフィーリアは引き下がらずに怒鳴り返す。
「だってみんな、これもみんな貴方のせいよ! せっかく決意を固めても全部貴方が、貴方が私の調子を乱して……ッ、貴方が泣いたりした時から私はもう、どうしたらいいか解らなくなったのよッ! 何故邪魔をするの、何故?!」
「だって復讐なんて意味がない。連鎖に次ぐ連鎖で一生終わらない。辛くても泣く事すら出来ない復讐なんかが君の全てだと言うなら、そんなの僕が奪って壊してやる……ッ」
「それでも、私の存在意義はそれしかなかったのよ! 私には誰もいない! 他なんてもう何もない!」
 セシルの身体を力一杯突き放し、ルナフィーリアは叫ぶ。
「そんなの違う!」
「何が違うと言うの?!」
「何もないなんて違う。君にはまだ僕たちがいるじゃないか!」
 ルナフィーリアの瞳が、いっぱいに見開かれた。セシルは後退ろうとしたルナフィーリアの手を掴む。
「――手を、離して……ッ」
「離さない」
「離してよ!」
「離さない!」
「離してッ!」
「離すもんかッ! 君は死なせない。絶対――ッ! 僕じゃ君の大事なものの代わりにもならないけど、でも、僕は君のすべてを奪う代わりに、ずっと側で支えるから……ッ!」
 ルナフィーリアはセシルに背を向けた。その肩も、腕も、身体ごと震え始める。セシルはその華奢な背中越しで腕を回し、髪に頬を付けてしっかりと抱きしめ、
「辛かったでしょ。ずっと気を張って、ずっと泣かないで、えらかったよ」
 優しく囁き、そして。
「でももう、いいから」
「――――ッ」
 ルナフィーリアはたまらず視線を上げる。既に涙目だった。彼女の視線の先にいたアスティアは表情を緩く解き、静かに頷いた。
 間が、少しだけあった。
 ルナフィーリアの大きな瞳いっぱいに、みるみる盛り上がっていく透明なしずく。それが一粒こぼれ落ちた時、ルナフィーリアは顔を大きくゆがめて目を閉じた。とたんにボタボタと大粒の涙が溢れ出し、頬を濡らして行く。
「……ひぅっ……ぅ……ううーっ――」
 こらえきれずガクリと膝を折った。抱きとめていたセシルはゆっくり体制を合わせ、地面に膝をつく。
「わああぁぁ――ッ!」
 全身をふるわせて慟哭する彼女の眦から、とめどなく涙がこぼれて行く。

関連記事

コメントの投稿

Private :

カレンダー
10 | 2018/11 | 12
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
カテゴリ
掲示板
感想、連絡等、お気軽にどうぞ♪
個別記事拍手で頂いたコメントの
お返事もこちらにて!
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
カウンタ




2006.12.07開設

ここ創ってる人

Author:愛琳

このページのトップへ