アスメモ:00  予感


  アスメモ:00  予感

 春宵。まだ冷たい潮風に、花の薫りが混じる頃。
 アスティアは、窓の外を眺めていた。眼下には白く泡立ち、うごめく波の黒い海。闇の帳が落ちた水平線には昇りたての満月が赤く、歪んだ形で天地を照らしている。
 冷えた鼻先に手の甲を当て、僅かに息を止めた。気分の落ち着かない宵だった。
「殿下、宜しいですかな」
「入れ」
 薄く張った緊張を溶かした柔和な声。アスティアは視線を室内に戻し、短く告げた。
「失礼仕りまする」
 入室して来たのはアスティアの側近、ルルドだった。
「御探しになっておられた書物を御届けに。しかし、ここまで古い歴史書とは。大分骨が折れましたぞ」
 アスティアは差し出された分厚い書物を受け取り、色の煤けた表紙を撫でる。
「苦労を掛けた。この書だ」
 労いながらも指は表紙を開く。湿気た紙の匂いと共に、欲しかった知識の一行目に視線を落とした。
「相変わらず、熱心で御座いますな」
「王を継ぐ者が、歴史に通じぬ馬鹿ではいられないだろう」
「――殿下はもう少し、ゆとりを持たれても良いと思いますぞ」
 教育のし甲斐がない、とばかりにルルドは小さく嘆息する。彼は、アスティアが幼い時から教育係を務めていた。アスティアは本から視線を上げず、
「一秒も惜しい。私には、知らなければならない事が多すぎる」
「やれ……幼少時、厳しくしつけすぎましたか」
 ルルドは肩をすくめ、苦笑する。そのどこか不満そうな仕草。アスティアは本から顔を上げ、
「なんだルルド。荒れた方がよかったか」
「いやいや滅相もない! 殿下は手の掛からぬ自慢の殿下ですぞ」
 思いがけない言葉だったのか、ルルドは泡を食って弁解する。その態度にアスティアは僅かに笑み、視線を細めて窓の外を見る。
「自分でも、根を詰め過ぎていると感じる時はあるんだがな」
 欠落した能力を補う為には、過ぎる程努力をしてもまだ足りない。言葉にせずとも、ずっと傍にいたルルドには伝わるものがあるのか。
「……殿下」
 静かに呼ぶに留め、言葉を慎んだ。
 僅かに落ちた静寂を、窓から入り込む風の音が攫っていく。
「――しかし、今宵はどうも落ち着きませんな」
 ルルドが呟いた。
「ルルドもそう思うか」
 アスティアは呟いて、眉をひそめる。月は空に昇っており、黒い海上に浮かんでいる。その光の筋がまるで血のような色を帯び、背筋の温度を下げていく。
 そして、決定的に異変を感じたのは南の海上だった。アスティアは僅かに身を乗り出し、遠い海の向こうを注視する。その空を染める赤は、月の明かりだけではない。先程までは無かった、何事か。
「南の空がおかしい」
 その隣でルルドも怪訝そうに眉をひそめる。
「あれは……まさか、燃えておるのでしょうか」
「だとすれば相当な規模の火災だ」
 ごくり、と唾をのむルルド。
「何か、災厄の前触れなどでは無ければ良いのですが」
 アスティアは目を眇め、身を正して拳を握る。

 ――何かがはじまる。そんな、予感がする。
 そして――――ムーンブルク陥落の訃報が伝えられたのは、それから三日後の事。
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